2020年4月12日日曜日

観音堂の桜に会う


花の丘に、季節が巡ってきた。





2020年4月4日。観音堂の桜は、まだ五分咲といったところだろうか。この日、まだ昼前であったが、わたしは樹の下の石段に腰を下ろし、ウイスキーのポケット瓶を舐めて過ごした。






4月7日。夕暮れの観音堂を訪うた。うすれゆく空の光は花を輝かせるほどのちからはないが、却って存在感を際立たせている樹影に、わたしはたじろいでしまった。






鳥肌が立つほどの、凄み。



また幾日かの時がうつる。わたしはまた観音堂の立つ花の丘に足を向けた。



大変なことになってしまっている。丘の裾に広がる果樹園、民家の庭には花々が弾けるような彩りを広げていた。散りゆく梅、咲き始めの桃、杏、象牙色の林檎の花、そんな花の奔流の源に聳えるかのように、あの桜がおわした。





観音堂は、花に埋もれてしまっている。ご本尊さまはさぞかし心地よくお過ごしだろう。塩倉山海福寺。いまでは無住ながら、信濃百番札所の二十四番、松本三十三番札所の二十六番に数えられる古刹。案内板によると、創建は十二世紀はじめ、ご本尊は『聖観世音菩薩立像』。





お堂の裏手から眺める。





それにしても、見事な枝垂桜である。ふたつ並ぶ石造物は念仏供養塔と道祖神である。







林檎の花にはさまざまな色合いがある。観音堂の前に植えられたこの樹は、淡い黄色を帯びた可憐な花だった。遠景は左から袴越山、美ヶ原王ケ鼻、三峰山、鉢伏山。中景には塩倉池。





ここ数年の様子をご紹介しよう。



2014年。わたしが散歩の途中でこの桜のことを知った年。早朝、扉峠の方から昇ってきた春の朝日が、桜を染め上げる。この樹に近づくと、わたしはあんぐりと口を開けたままなにか云おうと呻いたり喘いだりしながら、見上げる。しばらくの間たましいを吸い取られるにまかせ、ようやく気がついたように写真を撮ったり、樹の後ろに回ったりする。そしてあわてて観音様に挨拶を申し上げ、またぼんやりしてしまう。

どうやらこの樹は、ちからを与えてくれるというより、わたしを駄目にしてしまうようだ。





2015年。やはりわたしは駄目になった。





2016年。塩倉池というため池の堤から桜を眺める。凄いものである。






2017年。この年もわたしは立ち尽くした。





2018年。この樹の下で、朝からわたしはボルドーを一本空けた。




そして昨年の春。





この集落は、岡田塩倉と呼ばれている。遠く、上越の海岸、糸魚川から松本平へ塩や海産物を運んだ『塩の道』の経由地で、塩倉山海福寺の名前がその歴史を物語っているようだ。いまでは林檎の果樹と田畑が広がるのどかな風景である。そののどかさの彼方に、おそらく、善光寺街道が拓かれるよりも古く、人々や物資が往来したと想像される。近くには縄文時代の遺跡も多く存在し、古墳がいくつも残され、古代には登り窯が多数築かれた。つまり、当地ではもっとも古くから人々の活動の痕跡が認められる場所のひとつなのだ。

観音堂は、いつの日かこの丘に建てられ、街道を行く牛馬の列を見送ったことだろう。桜の樹齢はいかほどか判らぬが、堂の前には向かって右手に切り株が残る。かつて、左右、対の枝垂桜が満開の花を滝のように咲きこぼしている様子をまぶたの裏に描いて、わたしは今年の花の丘を後にした。