2018年3月11日日曜日

縄文の微笑み

縄文の神との対話は、まだ続いている。



古層の奥底の深いところから、わたしに囁きかけて来るのだ。

最初に受け取ったささやきは、土偶や装飾土器に施された「顔」が語りかけてくる言葉だった。それは、遠い先祖が五千年の時を隔ててわたしに伝えようとした「生きろ」というメッセージだった。もう少し正確に書くと、わたしひとりの生き死にの問題ではなく、わたしの次世代に連なるいのちのリレーのことである。いのちをつないで行け、という祖先たちの希求である。そういえば、長男の大豆が産まれた時の叔父の祝いの言葉が「はびこってやれ」だった。


わたしは電波系ではないので、アンテナの感度がすこし悪い。それで時折、博物館や郷土資料館などを訪れて、縄文のひとびとの手が生み出した道具たちを眺めに行く。春が花開いたようなこの日は、東筑摩郡朝日村の美術館に併設されている『朝日村 歴史民俗資料館』をおとのうた。



鉢盛山に向かってリトルを走らせる。あたりは高原野菜の畑である。





朝日村は縄文の里である。電力中継の里でもある。おおお、遠く八ヶ岳が見えている。朝日村の縄文人たちは、あの山麓の縄文集落との交流を持ったのだろうか。




村役場がやたらかっこいい。




ここが目的地。公民館や運動施設がひとまとまりになって、熊久保遺跡と云う縄文集落に立地している。館内ではその出土品を見ることができるという。





このすばらしい展示を貸し切りである。許可を得て写真を撮る。うむむ、たまらん。





おんや。奥の右から二番目の土器はどこかで見たことがあるぞ。





これは一月に松本市の考古博物館で眺めた土器だ。上部の縁にあたる部位のデザインがそっくりだ。





うむむ。すばらしい。





うむ。社宮司明神(ミシャグチ)さんもお祀りされているではないか。祭祀に使われたと考えられている石棒。屋外の復元住居内にも石棒のレプリカが建てられていた。





土器の装飾である。魚のようにも見えるが、円とやじり型の組み合わせはいろんな土器で見られる。





見よ、縄文の微笑みを。





グラウンドの土手では福寿草が咲いていた。朝日村、美しい土地である。




すこし北側から八ヶ岳。






松本に戻って豚骨ラーメンでも喰おうと考えていたのだが、どうしてもこの美しい土地で昼飯を食べたくなった。朝日村公民館の一角に営業しているカフェ『もりのこびと』に寄る。





お近くにお運びの際は、ぜし。











2018年2月11日日曜日

淫祠邪教の類いなのか....

(※一部に性的な描写、表現、不快感を誘引させる可能性のある字句画像等のコンテンツが含まれています。未成年者、教育関係者、祓行禊行中の方は閲覧をお控えください)


前の項で、社宮司大明神というふるいふるい神さまに出会ったことを書いた。諏訪あたりから辰野上伊那ではもっとも身近な神さまで、お諏訪さまそのものが実は社宮司さんだとする説もある。松本、安曇野ではあまり馴染みが無かったので知らなかったのだが、関東や東海でもお祀りされているようだ。武州練馬の石神井もそのひとつだと聞く。

漢字の当て方が実に多様である。考えるとどうも、文字が伝わる以前に広く各地に浸透し、呼び方もご当地風にローカライズされていたのだろう。 そこへ文字が伝わって、多様な表記が生じたと考えていい。それだけ古くからの神さまだと云うことだ。



松本近辺では、前項でご紹介した大村雪中の「社宮司大明神」のほか、和田という地区にもう一社鎮まっておられる。諏訪明神さんはそれこそ何十社とおられるが、社宮司さんはごくわずか、そう思っていた。


ところが、松本界隈では、調べてもまったく情報が出てこない社宮司さんに、短期間に何度も会ってしまうという奇妙なことが続いている。



平成30年1月30日、これは安曇野市真々部の社宮司さん。雪の朝に道を間違えて通った場所で、偶然に見つけた。



 何気なく読んだ案内板に、この祠は社宮司さんの祠である旨、書かれていた。



 
その帰り道だ。前を通るついでと言ったら失礼だが、近所の塩竈さまに寄ったのだ。拝殿の右側に、底の抜けた柄杓がたくさん奉納してあった。はてなんだろう? ぐらいの好奇心で背後の祠を見に行った。摂社、境内社と呼ぶのだろうか、本殿の両脇の神さまである。



そこにはまぎれも無く「社宮司明神」と墨書されていた。子どもたちと何度か遊んだことのある境内で、これは発見であった。社宮司さんは、松本界隈でもあちこちにおられたのだ。

底の抜けた柄杓のことは、のちに重要な意味を帯びてくる。



さらに、その翌日である。
休みを取っていて、博物館に出かけたのだ。あいにく休館日で翌日に出直した訳だが、その帰り道、まったく馴染みのない住宅街の片隅で、またしても社宮司さんに捕まってしまったのだ。重ねて書くが、松本の社宮司さんリストなるものは調べても出てこない。知らない土地の初めて通る道で、社宮司さんがわたしを待っていた。としか思えない。



 平成30年1月31日、松本市の寿の片隅にて。事前情報なしに出会えた。



その案内板である。「みしゃぐじ」の表記、石棒信仰、子どもの神さま、とある。重要なキーワードである。


それから、この神さまはどんな神さまなのだろうと調べてみた。たまたまヒットした画像が辰野町沢底におわす社宮司明神さんで、いわゆる『陽石』とも呼ばれる男性のかたちである。社宮司さんは『石棒』のお姿である場合が多いこともわかった。



ちょっと待て。

そのお姿をどこかで見たような気がする。わたしは出かけるために着替えながら記憶を整理して、すこし離れた惣社というまちを目指した。



平成30年2月11日。「惣社伊和神社」さんというお宮に来た。惣社という地名は「総社」から転じたもので、古代に信濃の国府が置かれた場所と伝えられている。




たしか境内に、辰野町沢底のミシャグジさんそっくりのお姿が在ったようだが....



おわしたおわした。鎮まっておられる。悠久の時の流れを越えて、そこにおわしたのだろうか。まさしく、辰野町沢底の社宮司さんのようである(冒頭の写真)。


やややや。

そういえばである。ここ惣社から北東の方角へ1kmほどの美ヶ原温泉には、よく知られた『道祖神祭り』という奇祭が伝わっている。秋に、道祖神さまのご神体が神輿に仕立てられて、温泉街を練り歩くのだ。そのご神体というのが、丸太をあの石棒と同じ形状にしたもので、畏れ多くもご神体に婦女子が跨がり揺さぶられるという、とても恥ずかしい神々しい祭礼なのである。

美ヶ原温泉の道祖神祭りについては、ネット上に動画も写真もたくさんあるのでご覧頂きたい。




あ。

そう言えば先日、近所の観音堂を訪ねた。すぐ向かいにある護国神社さんにお参りしたついでである。観音堂の中を、そっと覗かせていただいたのである。

 わたしは、驚愕してしまった。



なんと、清浄きわまりないはずの、観音菩薩像のおわす空間に、その隣に、なぜこのような「もの」が祀られているのだろうか。昭和の頃の、山奥の温泉地の「秘宝館」ではないか。みほとけのお教えへのカウンターパンチのようだ。うん、じわじわくる。



う。
思い出してしまった。あれは、島々谷でのことだった。2015年、島々谷を岳友のJと歩いていた。徳本峠で幕を張り、春の霞沢岳に遊ぼうという趣向である。右岸のみちを拾いながら、新緑の谷の風景を楽しんでいた。

岩陰に祠を見つけ、山の神さまにお参りして行こうということになった。

奉納されているのか、お祀りされているのか、同じお姿である。


いったい、何が起きているのだろう。
松本ではあまり馴染みの無い社宮司さんに、立て続けに出会えた。社宮司さんはお諏訪さまそのものとされている。しばしば縄文時代の石棒をご神体としている。道祖神や山の神も同じ姿形を備えていることが多い。社宮司、道祖神、山の神、みな「同じかたち」が関係してくる。一体なんなのだ。

社宮司さんは縄文の頃から祀られ続けてきた神さまだ。わたしはそこに「生きろ」というメッセージを汲み取った。塩竈さんは安産の神さまというが、それは傍らの社宮司さんの担当だろう。無事に産まれろ無事に育てと守ってくれる。底の無い柄杓は安産のメタファだ。道祖神は道の神集落の守り神で、子どもの神さま。多産と成長の守りが本業で、境界の守りは後付けだろう。山の神さまはたぶん豊穣を祈るプリミティブな精神性を表していて、豊穣すなわちいのちの源としての「同じかたち」を祀ってきたのだろう。

おい。その神さまたちは、もともと同じ神さまなんじゃないか?



近所の目立たない祠を訪ね歩いた結果、信仰の根元に埋められて忘れ去られた何かの欠片に、触れてしまったのかもしれない。続きは随時、書いてみよう。













2018年2月4日日曜日

縄文の神に会う

その日、わたしが出会ったのは、日本文化の最古層に祀られた縄文の神だった。


風薫る五月。鮮やかに緑したたる欅らしき巨樹といくつかの木立の塊は、田園の一角に鎮まる鎮守の森の風景だった。歩を進めて近づくとやはり、赤い鳥居とその向こうには白木の社殿が見えたのだった。

掲げられた扁額を見上げ、最初わたしはこれを「やしろぐうじ」と読んだ。最古層の神との出会いである。正しくは「しゃぐうじ」さん。




松本市大村の社宮司大明神。境内には公民館が並び建ち、古くから集落の鎮守の神さまとわかる。拝殿は木の香が漂い流れそうな白木であるが、本殿は古い造りなのだろう、覆屋が掛けられていた。境内には道祖神、三猿の石造物、常夜灯などが並んでいた。

説明板には『社宮司の本社は諏訪明神上社の神主守矢家の祝殿である』とある。よく読めば、諏訪大社ではなく諏訪明神となっている。お諏訪さまを明神さまとお呼びすることは、諏訪では一般的である。友人の諏訪人もそうである。この時は気付かなかったが、わたしはいくつもの「謎」という名の地雷を踏んでしまったようだ。上の説明文の「上社」「守矢家」「祝殿」あたりがそれである。このことはまた書く機会を得たい。




社宮司大明神の前には、田植え前の水田が広がっていた。燕舞う空の下に、三峰山と鉢伏山が写っている。三峰のすぐ裏が霧ヶ峰。そして八ヶ岳へと続く山並みがある。

後に知ったことだが、八ヶ岳の山麓から諏訪にかけて、社宮司さんは集落ごとにお祀りされているらしい。諏訪の地では「みしゃぐちさん」と呼んで親しまれ、また崇敬されているという。そしてお諏訪さまの本質的な、というか「もともとの神さま」はすなわち「みしゃぐちさん」であり、その起こりは縄文時代から続く信仰と祭祀であるという。ご神体の多くは数千年前、縄文時代中期に作られた「石棒」で、男性を象った石器だという。わたしは何やらアニミズム的なその要素を知って、社宮司大明神さんに親しみを覚えながらも、謎めいた思いを払拭できずにいた。






時は過ぎ季節は移ろい変わる。

旧blogに書き散らしたことなので採録は避けるが、昨夏のある日、わたしは塩尻の平出考古博物館を訪れ、縄文土器の装飾と土偶たちに対面する機会があった。当時の人々が粘土に彫り込んだ表情に、ある特徴的な「顔」があって、わたしはその表情から発せられたメッセージのようなものを読み取ろうとしていた。展示を眺めていても答えは得られず、帰宅してからはっと気付かされたのだった。

メッセージは「生きろ」というものだった。

生と生命に向けられた「希求」だった。我が子に向けて無事の誕生と成長を祈り願う、いのちのメッセージだった。その瞬間、わたしにとって縄文人という存在は、「展示物」ではなくて「ルーツ」として昇華したのだった。そう、土偶に顔が刻まれてから連綿と200世代ぐらいを重ねて、いまのわたしが居る。

存在し、生きていることの奇跡を感じた瞬間だった。





ぼんやりと暮らして年を越し、少し前に幻視を得た。前項で書いたように、塩の道を辿って黒曜石や塩、翡翠を携えた縄文の旅人がこのあたりを往来していた様子を思い浮かべたのである。きっといまでも、あの土偶の顔が、わたしに何かを語りかけ続けているのだろう。




真冬の一日、松本市中山にある松本市立考古博物館を訪れた。

街角で眺めたある縄文土器の写真に、魅せられてしまったのだ。そしてどうしても、本物を眺めたくなった。



 『縄文の美・その形と心』展。左側の土器がお目当てである。平成30年3月11日まで。


 うむ。これである。
 『有孔鍔付土器』である。樽型の土器の口のところに孔が開けられている。この孔が問題で、一説には皮を張って太鼓として鳴らした、あるいは酒を醸すにあたって蓋を留め、発酵ガスを逃がした、などと議論されているようだ。


いずれにせよ、音を出したり酔わせたり、呪術か祭祀に関わる遺物だと考えられている。わたしが魅せられたのは、土器の肩に並んだ装飾、文様である。 瓜を半分に切ったような造形である。わたしはこれを、貝と見た。少年時代の一時期、長崎千々石湾という温かい海の畔で過ごしたことがある。砂浜に降りて汀を探すと、タカラガイと呼ばれる仲間の貝殻が落ちていた。とてもきれいで、愛らしくて、拾っては大切にしていた。その貝殻の姿にそっくりなのである。

おそらくこのタカラガイそっくりのモチーフは、女性的なかたちから多産と豊穣のシンボルと見て間違いあるまい。海を知らなかった中央高地の縄文人たちがタカラガイを知っていたのだろうか。想像は飛躍する。前項で書いたように、遠い海辺の土地と交易・交流があって、タカラガイが原始通貨として使われていたのかもしれない。



この左右対称の渦巻きのような文様にも、何か象徴的な意味合いが示されているのだろう。こうした「記号」が読み解かれて行くかもしれないと想像すると、なにやら胸が熱くなる。






ほかにもたくさんの土器に出会えた。これは明らかに蛇であろう。
受付の事務所で確認すると、写真撮影は許可されているという。その男、過去に別なところで「博物館という場所にはシャッター音が似合わない」ということを書いているが、貸し切りなのであっさり宗旨替えである。これは絶好の機会と、思う存分アイフォーンのカメラに収めた。



うむむ、美しい。たくさんの顔が付けられているように見える。



これも蛇のようだ。



 虚ろに穿たれたその孔....。



すばらしい展示である。二時間以上を過ごしてしまった。

帰りがけにカフェに寄り、タブレットで『有孔鍔付土器』を調べてみた。画像検索をかけると、たくさんの似たような土器たちが表示された。いろいろな種類があるのだな、いつか本物を見に行きたい...。そう思いながらも、「わたしの有孔鍔付土器」がなかなか出てこない。もっと有名な土器がたくさんあるからだ。そこでわたしは、撮影した写真に写っているキャプションで調べることにした。さきに掲げた写真を拡大すると『大村塚田遺跡』と判別できる。ここで出土したのだ。今度は遺跡名で検索をかけるとなんと発掘調査の報告書が読めるというではないか。

大村塚田遺跡。DLした報告書には、46軒の縄文時代中期の住居跡が発見された、とある。そのうち3軒には祭壇があって、マツリが行われていた。土偶が33点! ミニチュア土器や土鈴まで出ている。なんとも呪術色の濃いムラである。さらに、石棒と考えられるモノまで出土(37ページ)、もう心臓がばくばくしてきた。
 
ここだ。ここで「わたしの有孔鍔付土器」が発見されたのだ。帰り道に寄ってみることにした。ルートを考えながら、一種の不安感のような予感のような、ある思いが浮かんでいた。遺跡の地図を確認しよう。

報告書のスクリーンショットである。

がつんとやられた。地図の左上に、社宮司大明神とある。 去年の春、わたしがふらりと訪ねて参拝した、鎮守の森である。予感は確信に変わった。

背景に溶け込んで判りにくいが、電柱の影の先に社叢が見えている。つまり、このとき、わたしは縄文のムラの上に立っていたのだ。この目の前の、雪に覆われた田んぼの下から「わたしの有孔鍔付土器」が出たのだ。 



やはり間違いなかった。社宮司さんである。この神さまは諏訪地方では「みしゃぐちさん」と呼ばれ、縄文時代から続く信仰、諏訪信仰そのものの原点とされている。縄文時代の石棒を神体として祀り、蛇の姿をしているともされている。


途方も無い遠回りをして、この地点に戻ってきてしまったようだ。

去年に出会った社宮司さんが鎮まる場所は、かつて縄文のムラだった。そのムラではマツリが行われ、土偶や石棒がイノリに使用された。その場所に祀られている社宮司さんはすなわち、縄文の頃の神さまがずっとここにとどまっておられるということだ。

5000年もの永きにわたって鎮まっておられる社宮司の神さまに、わたしはあらためて参拝した。遠い祖先たちが「生きろ」と込めたメッセージを、悠久の時を隔ててもう一度受け止めることができた。


いまを生きて在る自分自身に起きている「現在進行形の奇跡」の重みを、もう一度考えることにしよう。















2018年1月3日水曜日

旅の異能者たち

気がつけば、新しい年を迎えていた。

年神さまをお迎えしたら、もうすぐ松本の城下町で『あめ市』が催され、大いに賑わう。あめ市という行事は、そのむかし戦国の世の出来事に由来する。武田、上杉、そして今川の熾烈な勢力争いの挙げ句、武田支配下にあった信濃のこのあたりには塩が届かず民は困窮した。それを看過しなかった不識庵謙信は、敵領にも関わらず塩を送った。「敵に塩を送る」の故事である。これを、数百年を経てなおいまでも、松本のまちでは祝うのである。

そんなことをぼんやり思い浮かべていたら、越後から塩が運ばれて来た古代からの道筋が、わたしが棲むまちを通っていることを思い出した。「千国街道・塩の道」と呼ばれる古道で、上越糸魚川を起点に、信州塩尻に至る。塩の道の終点が塩尻というのは解りやすい。



糸魚川から姫川の流れを遡ってきた塩の道は、さのさか峠を越えて仁科三湖の畔を巡り、安曇野・熊倉の渡しで犀川を渡る。ここでなぜか奈良井川に沿わず、山越えの養老坂という難所を経て松本のご城下へと向かう。上の写真は養老坂の上りのあと、小峠のような地形から、松本市街地の北部が見えてきたところ。眼下の集落は岡田塩倉というところで、中央に写っている建物は古刹『塩倉山 海福寺』の観音堂だ。塩倉の字(あざな)が示すように、上越から塩の道を運ばれてきた塩などの海産物が集積されたのだろう。海のめぐみを「福」とするお寺の名前も、こうした歴史を伝えているように思える。左奥は浅間温泉の温泉街。

お堂の右に、大きな樹が見える。枝垂れ桜の古木で、春には素晴らしい開花を魅せてくれる(この桜のことも旧blogでさんざん書き散らした)。

正月の穏やかな空の下に、お堂と古樹。わたしは黙って手を合わせ、それから春の花が開いたらまた参ります、と観音様に申し上げた。



これが春の開花の頃(2014年春)。素晴らしいのひと言に尽きる。

ここから塩の道は、いまではのどかな田園風景の中を辿り、善光寺街道と合わさって御城下に入る。



戦国のころ、その年その日、上越の海岸から牛馬の背中に積まれ運ばれた塩の俵が、やはりこの塩倉の集落を出立したのだろう。まだ冬枯れの景色の中を、牛馬の列がゆっくり歩んでいった様子がまぶたに浮かぶ。



海福寺さんの観音堂から南東方向、薄川の谷を眺める。松本のお城は丘陵の陰になる。

遠く左奥に三峰山(1887.8m)、中央は鉢伏山(1928.8m)から高ボッチ。三峰山のすぐ向こう側は和田峠、そして霧ヶ峰である。霧ヶ峰から八ヶ岳の山麓にかけて、そこは縄文遺跡の密集地帯。大規模な集落が営まれ、長期にわたって一種の文化圏が栄えていた。近年の考古学が明らかにしているように、出土する遺物、遺跡 の規模、また国宝のふたつのビーナス(土偶)が示すハイレベルな文化的要素を眺めれば、もっとも先進的な場所だったのかもしれない。

この文化圏を支えたのは、きっと霧ヶ峰で産出される黒曜石だったのだろう。黒曜石というのはガラス質の火山性物質で、矢じりやナイフといった石器の材料にされる、当時最も貴重だった物資と考えて良い。とくにここの黒曜石は、量質ともに他を圧倒する。縄文時代、これら原石や製品が各地へ、遥か北海道まで運ばれて、石器として使用されたことが判っている。



霧ヶ峰方向を眺めていたら、背後の糸魚川から来る塩と、霧ヶ峰から運ばれる黒曜石が行き交う様子がまぼろしのように浮かんできた。 ヒトがいのちをつなぐためには、海の塩が必要だった。八ヶ岳山麓の縄文人たちも、塩を必要とした。南側の太平洋からも塩は来ただろうが、わたしが立っている場所、日本海へ続くこの道からも塩が運ばれて来たのだろう。

塩の道がいつの時代から使われてきたのかは、解らない。 しかし、人が通る道筋、歩けるルートというのは古くから自ずと決まってくるもので、山野を隈無くどこでも歩けるというものではない。また河を渡るという 「徒渉」の問題があり、橋や渡し船がなかった時代には、交通路は固定されていただろう。そう考えれば、歴史に残るよりもずっと古く、コメ作りも文字もなかった時代から、人々はこの古道を歩き、黒曜石や塩を運んだと考えて間違いない。



  ■ □ ■

黒曜石や塩などの物資はどうやって運ばれ、伝搬していったのだろう。

Wikiによると、飛鳥時代から、道路網の整備、宿駅伝馬制などが行われていた(Wikipedia「日本の古代道路」の項)、とある。

これらを眺めると、古代国家形成期以降の交通や旅の様子を窺い知ることはできそうだ。例えば、山上憶良が書き残したように、東国から「防人」に赴いたひとびとの悲哀が万葉に歌われているし、都から地方に遣わされた役人の記録も残る。

気になるのは、それ以前のことだ。ニッポンの夜明け前。街道も交通も、いまだ整備されざる太古。コメや鉄が伝わる以前の原ニッポンのころ。誰がいかにして、塩を携え黒曜石を運んだか?



これまで考えられてきた、縄文人のくらしや姿という視点から導くとこうなるだろう。

竪穴式住居を建てて集落(ムラ)を営み、自給自足で、どんぐりを拾って野生動物を狩って魚を釣り、雨の日は粘土をこねて土器を作った。まあ時には、隣の集落と物々交換で食べ物や物資を分かち合っていた

こう考えると、黒曜石や塩の移動(伝搬)も、物々交換という仕組みの中で行われてきたようだ。ある午後、隣ムラの男が疎林の中の小径を拾ってやって来る。ムラの広場でどんぐりをすり潰している男に、ドヤ顔で声をかけ、黒曜石の矢じりを自慢する。

「ほれヒロシ、これな黒曜石、霧ヶ峰の一級品やで」

「おおシゲルええなあ、わいの獲った鴨と交換せえへんか」

「一級品やからなあ。
 これで射たら、鹿でも熊でもプスーのグサーやで。
 ほんでカルビでもロースでもパクーでウマーや」

「じゅるっ。ええなあカルビ、パクーかいな」
 
「せや。霧ヶ峰やからな。鴨二羽ならええで」

「うーんこの。お、塩が残ってたはずや、塩付けたろ」

「ほなら、ええで」


ヒロシとシゲルは黒曜石と塩(鴨肉付き)を交換した。このように、物資も情報も、細々と各地へと広まっていったのだろうか?



縄文時代の日本の人口を推定している研究がある。
一説に、最大で26万人。別な説では約10万人とあった。現在の人口配分で計算して、僕の棲む松本盆地に暮らすのは、全縄文人の0.4%としてみる。最大26万人説で0.4%とすると1,040人、一世帯4人として260戸の竪穴式住居である。ひとつの集落に10戸として、26の集落である。

おい、松本盆地の塩尻から大町までムラが26? ずいぶんスカスカじゃないか。
それでも塩の道沿いには、点々と集落があったはずだ。数時間歩けば辿り着く場所に隣のムラがある。

つまりは、縄文時代における信州の真ん中らへんの人々の交流は、せいぜい隣ムラまで往復できれば良く、狩りや採集で山野を駆け巡っていた縄文の人々には日常的なことだったのだろう。


  ■ □ ■

そんなことを考えていたら、
『KOzのエッセイ〜縄文の謎 (2) 交易』という記事に出会うことができた。これはなかなか鋭い視点で明快に書かれた内容で、これまで考えられていたところの縄文暮らしのスタイルを、やや書き換えていくような要素が盛り込まれている。少しだけご紹介すると、こういうことだ。
高度な技術で制作された磨製石器や洗練された土器、こうした製作作業においては、人々が自給自足的に「片手間に」担うのではなく、かなりの専業化が進んでいた。同様に、製作作業だけではなく、専業の運搬者、交易者が存在し、流通においては原始貨幣、自然通貨のようなものが存在した。(筆者要約)


うむ。メカラウロコである。縄文時代、自給自足ベースという基盤の上に、専門性の高い分野では専業化が進んでいた、原始的な経済システムも胎動し始めていた。上の記事には、その根拠となる発掘・研究の事例紹介も含め、客観的な考察が含まれている。そう、こう考えた方がしっくり来る。すぐる夏に、となりまちの塩尻で縄文土器の展示を眺めた。その造形、装飾に込められた表情、今でも共感できる願いと祈り、どれも素晴らしいものであった。KOz師が書いておられるように「片手間に」作り出されたものとは思えない。やはり、匠というかアーティストと書くべきか、言わばゴッドハンドから生み出されたものと考えるべきだろう。



  ■ □ ■

ここで、上に書いた「専業の運搬者、交易者」について少しだけ考えてみよう。KOz師のテキストでは「獣道に近い自然道を見極めながら目的地に到達する道案内人や経験者」とある。つまり、旅のプロフェッショナルだ。GPSも、ゴアテックスもビブラムも無かった時代に、大地を踏みしめ沢筋を登り岩稜を越えて物資を運んだ、我らハイカーとしての大先輩だ。季節ごとに踏破可能なルート、枯れることの無い水場、雨露をしのげる安全な野営地を知っていたのだ。オオカミを寄せ付けない知識、悪天候でも焚き火を起こせる技術、軽量でコンパクトな装備と携行食糧、山野で現地調達できる素材を活かす生活技術、貴重な荷を安全に目的地まで運ぶノウハウ、あるいは旅の途中で狩りを行ったかもしれない。まさにアウトドア/ブッシュクラフトのマエストロにしてサバイバル・マスター。

ソロだったのだろうか。パーティーを組んでいわば商隊のように行動したのだろうか。どちらもあり得ただろう。ソロで遥か山脈の彼方を目指した旅人もあったはずだ。卓越した技量のリーダーのもと、長大で困難なルートを越えて行った一団もいただろう。現代人には想像も及ばぬ旅の技術を備え、縄文社会のニーズに応えていた「異能者」たちが確かにいた、わたしにはそう思える。

信州のような中央高地とは別に、沿岸部や平野では、丸木舟を使って河川の奥まで遡上し、物資の交易を担った地域もあっただろう。実際に北海道や南関東では縄文時代の水上交通を軸にした研究事例もあるようだ。海を、陸を、山野を、縄文の旅人たちは航行闊歩したに違いない。



つまり、ヒロシは、シゲルに、霧ヶ峰の黒曜石を譲らなかった。

なぜなら、シゲルは鴨一羽と換えてくれ、などと言うが、遠くには黒曜石の稀少価値を知り、鴨肉などと云わずひと抱えもある塩の壺を差し出してくれる相手を捜すことができたからだ。

ヒロシは、数日かかってでも直接糸魚川まで出向き、より有利な取引を行ったかもしれない。さらに踏み込んで書くならば、KOs師のテキストにあるように、交通の要衝みたいな場所には物資の集積所のような「ハブ」が成立していて、「市」としての場でさらに有利な商いをしていたかもしれない。

え? 縄文時代に、もしかしたら市が存在していた?
ならば「暦」の概念、もしかしたら冬至夏至、月の満ち欠けなどを基準にした日付と時間感覚があったかもしれない。うわあ、凄いことだこれは。わたしが書くことだから、根拠は何も無いが。



  ■ □ ■

そういえば、この辺りのそこかしこから縄文時代の遺物が出る。

拙宅の敷地は、縄文遺跡の指定地にある。ふと思って隣接する畑の片隅に落ちていた土塊の欠片を拾って眺めると、縄目のような文様が見える。この欠片が縄文時代のものかどうかは判らないが、うちの坊主は黒曜石の欠片を拾ってきたことがある。



五千年ほどむかしのある日、黒曜石を携えた縄文の旅人が、あるいは海産物を運ぶ人々が、拙宅の場所にあった集落に立ち寄ったかもしれない。貴重な塩や干し魚を携えた旅の一団がしばしば通るこの集落では、彼らを迎え、もしかしたら期待を忍ばせて歓待し、交流したのだろう。

遠い土地の様子、諏訪の湖とは比べようもなく広い海のこと、舐めれば塩っぱい水のこと、海辺の風景のこと、そんなあれこれを語らい合うのは、古い古い時代の原始的な日本語だったのだろう。海を見たことがないこの山国の集落の民は、どんな表情で話を聞いたのだろう。どんな想いを、未だ見ぬ地へ馳せたのだろう。



穏やかな正月の日に、縄文の旅人が行き交ったこの場所に立ち尽くし、脳裏の幻視は浮かんでは消え、そしてまた幻像を見た。