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2018年5月13日日曜日

御射山幻視行

序章〜奥宮の鎮まる森



この森に足を踏み入れるのは初めてであった。


浅間温泉から美ヶ原まで上り詰める林道から分かれて、細い杣道が通じている。国土地理院の地形図にも実線が描かれていて、女鳥羽川源流の山腹を巻きながら深い深い森の奥の「ある地点」で終わる。ただそれだけのことなのだが、わたしの興味を引きつけたのは「ある地点」に鳥居の記号が示されていることだった。こんな山深いところに神社が? いった誰が詣るのだろう。それは地形図を眺めるたびに呼び起こされる想念だった。


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5月のある日、わたしは休みを得て杣道の起点に立った。背後を、美ヶ原へ通じる二車線の舗装道路を車列が飛ばしていく。閂が掛けられた鉄のゲートをぎぃぎぃ鳴らして開き、また閉めた。杣道は未舗装路ながら、山菜採りの軽トラックなどが入るのだろうか、轍は深かった。




ほぼ水平に1時間ほどは歩いただろうか。作業小屋のような建家がある。鳥居の記号へは右に折れるはずだ。植林された落葉松の森から、白樺主体の明るい森に変わった。地形はなだらかで、幕営したくなるような平地もある。

わたしはアイフォーンの画面に表示された地形図にトラックログを刻みながら、鳥居の記号の場所に立った。そこは小ピークを成していて、いかにもお社にふさわしい場所であった。しかし、鳥居も社殿も無く、コンクリの枡と排気塔のようなものが埋設されているだけだった。





「ふむ。やはり既に廃絶されているのか」

こんな山奥である。近くを美ヶ原林道が通るとはいえ、人里からは隔絶されている。容易に参詣もままならぬところに、神を鎮めておけるはずもない。里のお宮に合祀されてしまったのであろう。わたしは、神社なんかとっくの昔に無くなっていた、という結論を得て、こんな奥地まで訪ねて来たことが莫迦らしくも思えていた。けれど気持ちの良い森はわたしを上機嫌にさせ、尾根伝いに歩かせることを決めさせた。背中のザックには珈琲道具を携えている。見晴らしの良いところで食事と珈琲を愉しもう。

わたしは気持ちの良い白樺の森をしばらく歩きながら、小鳥のさえずりを聴いていた。薮もなく歩きやすい。このまま尾根をまっすぐに登り詰めれば車道に出ることを予想していた。そのまま車道を下ろうか。やがてバイクを置いた地点に着くだろう。その時だった。






正面から顔面に突きを入れられたぐらいに衝撃を受けた。近頃はこういった場面に出喰わすことが多い。神さまはいきなり正面から現れるのだ。

地形図が誤っているのか、あるいはお社が遷されたのか、それは解らない。しかしこうして目の前に鳥居を見て、その奥に社殿がおわすことが予想されれば、頭を垂れるしかなかった。それから鳥居をくぐり、斜面を登っていった。その先には、荒縄で巡らされた結界の中に、神さまがおわした。





御射(みさ)神社、のっこば奥宮。のっこばとは乗越場であろうか、浅間温泉の御射神社春宮、三才山の御射神社秋宮の奥宮であった。積年、地形図のあの鳥居記号は、と疑問に思っていたその「なにごと」とは、何度もお詣りしている御射神社の山のお宮だったのだ。




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浅間温泉、御射神社春宮




御射神社春宮。

以前に暮らした浅間温泉町会を含む、本郷地区の氏神様である。10月の松明祭りで知られる。夕闇の中、稲わらで作られた巨大な松明が温泉街を引き回され、御射神社春宮まで運ばれるのである。翌日には「押鉾」と呼ばれる神輿の渡御がある。まだ赤ん坊だった長男坊主が、押鉾の上に飾られたすすきの穂の束が揺れるのを見て、腕を伸ばして触ろうとしたことを思い出す。

古くは山の神を祀っていたが、14世紀頃に地頭の赤沢氏が諏訪より御射山社を招いたと案内板などに書かれている。赤沢氏という氏族は、のちに松本城主にもなった小笠原家の庶流の家柄で、当地に居館を構えたらしい。本郷小学校の敷地だったか温泉会館だったかにもそんな案内板があった。

古くは山の神を?

諏訪から招いた御射山社が、そもそも諏訪明神の奥社、山の神のような性格を帯びている。その祭礼のことを調べると、狩りの神事や武芸の奉納が散見される。こうしたことから中世の武家氏族にとっては守護神として相応しく思われたのだろう。勧請の背景には原初の山の神との親和性の良さもあったに違いない。





春宮の拝殿。





春宮本殿。





春宮境内の石祠。このほかにも道祖神などが祀られている。浅間温泉に暮らした頃、ベビーカーを押して春宮への坂道を上ったものだ。そして赤い鳥居を見つけると、赤ちゃんだった長男が振り返ってにやりとする。そのかつての赤ちゃんは、いま二階の自室でThe Clashのアルバム『London Calling』を聴いている。この書斎から無断で持ち出したものだ。






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三才山、御射神社秋宮



御射神社秋宮。
春宮の松明祭りで、里におわした神さまは山に帰られる。田んぼを守って恵みをもたらし、山に帰っては翌春まで休まれるのか。稲わらの松明を焼く煙は、虫追いの役割を果たす。厄災を煙に乗せて追い払うのだ。同時に、田の神も煙とともに山に帰っていく。山に帰るには山にもお社が必要になる。そのお社がここ「秋宮」で、かつては春宮から秋宮へと押鉾の渡御があったと聞く。これらは浅間温泉に暮らしていた期間に見聞きしたことなので、誤りもあるかもしれない。







秋宮は、どちらかというと三才山の鎮守の趣である。三才山(みさやま)とは本郷地区において、女鳥羽川の上流にあたる土地の呼び名である。そしてその由来は、御射神社のおわす御射山の「みさやま」にほかならない。御射山の地名については、諏訪明神の奥社としての御射山社のおわすところ、という一般名詞で全国各地にある。煩雑を避けるため本稿では諏訪明神とのかかわりには、これ以上触れずにおこう。








拝殿前に、四つの本殿について説明がある。松本城の鬼門の守り、として崇敬された云々。






御射神社秋宮を訪れると、春宮よりいっそう山深く入った実感を伴う。三才山のさらに奥の戸谷峰、烏帽子岩などを歩いた帰りに必ず寄るのであるが、その理由が解った。社殿が北西を向いておられるのだ。鳥居から社殿には参道を南東に進む。南東を向いたまま柏手を打つ。背後の山が陽光を遮るために、社叢は暗く樹影が深いのだ。






しかしなぜ、社殿は北西を向くのか。参拝者の視線が向かう南東に、さらに何ごとかがおわすのだろうか。たとえば御神体とされる山がある、とかである。境内の案内板に拠ると、秋宮は「烏帽子の前宮」とある。




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烏帽子岩


烏帽子とは女鳥羽川源流に聳えるピナクル『烏帽子岩』で、秋宮から8kmほど東の尾根上に突き出している。古くから烏帽子大権現として崇められてきた。



これは女鳥羽川対岸を走る美ヶ原林道から。






松本・上田市境を通る蝶ケ原林道から間近に眺める烏帽子。





秋宮が烏帽子の前宮であるならば、烏帽子岩を遥拝する社殿の配置なら理解できる。しかし烏帽子岩はほぼ真東に近い。はたして、秋宮の南東方向に、何があるのか。長らくの疑問であった。






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結章〜遥拝の彼方に

地形図に記された、山奥の鳥居記号。そこは御射神社春宮・秋宮の奥社だった。その地に足を運んでみて、案内板までが設置され、わたしはひとつの謎を解くことが叶った。




『のっこば奥宮』の案内板の内容を記載する。

のっこば奥宮
御射神社の烏帽子岩に次ぐ第二の奥宮。建武時代(1334-5)赤沢氏の頃から神前に供える鹿の狩りをした場所で、仮寝の小屋の屋根や壁は穂の出たすすきで作った(穂屋)。現在も祭典にはここからすすきを取り、箸を作り、また穂をおしぼこにつけて回り各戸に配る。
平成9年11月 本郷地区景観整備委員会



そして、秋宮と『のっこば奥宮』の両方を訪れて初めて、ひとつの事柄が合致したのだ。



丸数字で4つの祭祀施設の場所を示す。丸にしなきゃ良かった。

 1=御射神社春宮
 2=御射神社秋宮
 3=のっこば奥宮
 4=烏帽子岩

この段階で、先に書いた疑問のひとつが解けた。

御射神社秋宮の鳥居の前に立って社殿を眺めると、南東の方角を向く。その視線の先には、『のっこば奥宮』が鎮まっていたのだ。上図の2-3のラインがこれを示している。また奥宮も秋宮の社殿と同じく北西を向いている。秋宮の鳥居から参道、社殿の配置がそのまま奥宮につながっているということは、奥宮の重要性を物語っているように思えてならない。上に転記した『のっこば奥宮』の案内板にあった「神事のための狩りの場所」という説明よりも、もっと深い理由があるのではないか、わたしはそう考えた。たとえば、最初に山の神が降臨された場所、というようなことだ。単なる位置関係の問題だけでは済まない、祭祀を行う上での理由である。

ここまできてわたしは、何となく戯れに、上図の2-3のラインを右下方向に引き延ばしてみた。スマートフォンの画面では見にくいかもしれない。




まさか、そこまでは考え過ぎであろうか。

御射神社秋宮の鳥居の前に立つ。視線は社殿を見ている。社殿の彼方には、山奥深くに『のっこば奥宮』が鎮まる。奥宮の社殿はこちらを向いている。そして奥宮の彼方には、美ヶ原の高原台地が広がり、王ヶ鼻・王ヶ頭が直線上に位置する。そして更なる先に、美しい円錐形の山体を持つ、蓼科山が聳えている....。

近隣の美ヶ原、王ヶ鼻・王ヶ頭あたりまでは妥当性があるだろう。とはいえ『のっこば奥宮』のある北麓から眺める美ヶ原は、特徴付けしにくい高原様にしか見えず、むしろ凡庸な山容である。あるいはそこが太古の人々の精神性に響いたのであろうか。ピークの連なりではなく広大無辺な天空の台地が、摩訶不思議な「テーブルマウンテン」として特殊性を帯びて受け止められたのかもしれない。事実、こんにちでも御嶽講関連の石像物が立ち並び、山岳信仰の祭祀の歴史が染み付いている場所だ。





蓼科山までラインを伸ばすことは、考え過ぎであろうか。

『のっこば奥宮』の向こうに美ヶ原を遥拝したことは十分に考えられる。同じ山塊である。その先に、蓼科山までをも同一ライン上に確認してしまうと、無視することも出来ない。上の写真のように、美ヶ原からは八ヶ岳の左に連なる格好で蓼科山の端正な姿が容易に望まれる。高原台地から望まれる蓼科のシルエットは、いっそうの神秘をかき立てたはずだ。





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古来、ひとは山を神々の世界、あるいは死者祖霊が帰っていく場所だと考えていた。様々な理由があるだろう。そしてその理由のひとつに、わたしはこう考えている。

雲である。

その巨大な山体を、一天俄かにかき曇ったと思えば、山は姿を隠すのである。例えば拙宅のこのデスクから、晴れた日ならば戸谷峰1,629mが見えている。それが、今日はあいにくの雨で見えはしない。その巨大な姿を自在に顕わしたり隠したりする能力をもって、山とはとてつもなく凄い力を備えている。風景を瞬く間に変えてしまうことが出来るのである。科学的知見を持たなかった太古の人々には、神威とはまさにこれだろう。さらに、山を隠した雲は雨となって大地を潤す。すべて恵みである。

山は、神そのものだった。








信州ご出身の歴史研究家でハッシー27さんという方が、日本中の神社仏閣遺跡などを訪ね歩いて記事にしておられる。>>『ハッシー27のブログ』
たとえば神社であれば祭神の考察から創建に関わった古代氏族の趨勢、古今の地名や地理的な結びつきなどから、歴史の地層に埋もれた様々な事柄を解き明かしてくれる、とてもエキサイティングなサイトをご紹介したい。このサイトに御射神社探訪の記事があるのでご参照されたし。わたしの勝手な思い巡らせとは異なって、奥深い古代史理解のベースの上で展開される、御射神社のあれこれである。




2018年5月4日金曜日

大洞山(松本市・筑北村境1316.0m)


旧四賀村の北寄りに会田宿と呼ばれる、善光寺街道の宿場町がある。この宿からは安曇野へ下る道のみならず、北信濃に至る善光寺街道が通じ、また東へ国道143号の会吉トンネル、青木峠を経て塩田平に出ることができる。いわば、筑摩の地と北信濃、東信濃をむすぶ古代からの交通の要衝である。この会田宿から少し西に入ったところが原山集落で、原山集落から仰ぐような位置に大洞山(1316.0m)がある。

地形図には登山道は記されていない。いないが西側の風越峠から明瞭な踏み後を追って山頂を踏んだのは10年前の早春のことである。今回は、南側から這い上がってみようと考えていた。原山集落の奥の「槙寄」と地名が記されたところから、沢から山腹にのびた実線がある。林道だろうと見当をつけて、ここから尾根に上がることにした。




平成30年4月22日、わたしは原山集落に居た。ここは、なんとも美しい山里である。沢の水を引き込んだ水路の響きに、田畑を耕す季節の到来が感じ取れる。民家の庭先の梢には芽吹きが鮮やかである。色とりどりの花が咲いている。大地と共にある人々の暮らしの一場面を見るようだ。山村の小径は、徐々に細まってついには山に分け入る。その、里と山には明快な境界というものがあって、こんにちでは鹿や猪を里に入らせないための防獣ネットに象徴される。しかし古くからは、この境界は人の住む世界と、神や祖霊が住む世界を分けていた。だから人は、山に入る時に「入らせてください」と頭を下げ、降りてくれば「ありがとうございました」と言うのだ。そしてそこには神が祀られる。


この朝も山に入るため、わたしは防獣柵のゲートを開け、そして締めた。その気配に気付き、大きな鳥が羽ばたき舞い上がる姿があった。大きな鳥、よく見る鳶(とんび)の倍くらいはありそうな、鷹か鷲の類いだろう。彼は、一羽の雉子を狩り、その身体を割いて食餌を楽しんで居たのだ。そこへわたしが現れたので、彼は高い樹の上にでも逃れたのだろう。雉子の死骸はまだ温かそうであった。山の掟が支配する、異界に入ったことを印象づけられた瞬間だった。




わたしは立て続けに、山の世界の乱気のようなものに捕らえられたのだろう。狩りの現場を見た直後、数十歩はど足を進めてからだ。視線のような、何かを感じたわたしは視線を巡らせて全身の肌が粟立った。行く手に、古びた鳥居と、石祠が佇んでいたのだ。いよいよ山に分け入ったな、と思ったその時に祠を見たのだ。山ノ神だろう。柏手を打って、「入らせていただきます」と申し上げる。素通りできるはずなど、なかった。







林道から山頂方面を仰ぐ。林道の終点からは、道が無いのは判っていた。薮漕ぎになるのだろうか。不安は無いが、未知への懸念はあった。





こんな廃林道を行く。倒木で随所が塞がれているが、秋の松茸シーズンには軽トラックが入って来るのだろうな。






中央は虚空蔵山という1139mのピーク。トリミングして補正を掛けてある。虚空蔵のことは煩雑になるので本稿では触れないでおく。左に大滝山から蝶ヶ岳の稜線が見えていて、その上に前穂、奥穂、涸沢岳、そして北穂が顔をのぞかせている。虚空蔵の奥に常念が聳え、横通との間に南岳の一部、横通のあたりに中岳が重なって、槍は東天井大天井に遮られるようだ。


林道は広場のようなところで左右に分かれていた。はじめ左へ進むと100mほどで道型が消えている。戻って右を拾うとこれも消えた。だが尾根に乗るまでもうすぐ、と判っていたから灌木をかき分けどんどん登る。鹿の踏み跡が錯綜していたからこれも使わせてもらう。





この松の佇む地点で尾根に乗った。尾根上に薮はなく、どこでも歩けた。






またしても突然、という表現が当てはまるほど唐突に、呼びかけられたような気がした。すぐ目の前に近づいた高まりを見れば、そこに石祠が祀られていた。地形図に1264の標高点が記されているピークである。この石祠は、入山地点に祀られていた山ノ神の奥社ではないだろうか。

下山時に知ったことだが、原山集落には「大洞 秋葉 神社」と扁額を掲げた鳥居があった。これが「大洞秋葉神社」なのか、「大洞神社・秋葉神社」なのか、社殿には詣でていないので確証がない。だがどうも後者と考えて秋葉神社はのちに合祀されたと考えてみる。すると、集落のお宮が里宮、朝に通った石祠が奥社、1264ピークの石祠が嶺宮と位置づけられるかもしれない。実際、奥社の石祠を正面から見ると、その先には1264ピークがある。





すぐ北に磐座のような巨岩。基部を確認していないのだが、10m近くありそうだ。石祠とのつながりが気になるところだ。次回にはこの巨岩の基部を観察しなければなるまい。もしこれが磐座であるならば、本来祭祀が行われる場所はこの岩の前であろう。想像に過ぎないが、年月とともに磐座の重要性が薄れ、すぐ側のピークに石祠が祀られた、というようなことが起きたのかもしれない。






痩せ尾根を行く。これは振り返って撮っている。左右はそこそこ切れ落ちているが、樹林があるため高度感はさほど無い。しかし足元を誤れば怪我では済まなそうだ。





原山集落からも見えた、山頂南のマイクロウエーブ反射板。誰が設置者なのか、ふと眺めれば「中部電力」の表示があった。





反射板を過ぎて小さな鞍部を抜け、ひと登りすれば大洞山の山頂である。三角点と手製の山頂標識が迎えてくれる。篤志家と書けば良いのか、こんな山を訪れる人たちも居るのである。






ところが、山頂の三角点は角が削られて損傷甚だしい。訪れる人とて稀なこの山で、誰が一体....



山頂からは西に向かう。1280mの小ピークは巻く。ここで尾根は南西と北西に分かれる。





南西尾根。この尾根を下ると風越峠に至る。むかし一度歩いているので、今回は一本北寄りの北西尾根を下ってみることにした。





失敗であった。この尾根の様子が、想像したものと甚だしく乖離していた。左に松茸山の入山禁止を示すビニル紐、右には檜の幼樹を鹿から守るためだろう、防獣ネットが張られている。この間を歩くのだが、紐やワイヤが障害になり歩けたものではない。





近景は美しくない。遠い北の山々を眺める。美しいものである。





鉄塔の下まで足を運んだが、ここは眺望が叶わない。珈琲道具を携えて来たが、気温が高すぎることもあって、やめておこう。





尾根から下降する。送電線巡視路を辿る。





県道303号に降りた。遠望は燕からケンズリ、餓鬼岳と唐沢岳への稜線。





展望台のような場所がある。筑北村の山村風景の彼方、北葛岳、針ノ木から後立山、白馬と続く白銀の稜線を眺める。帰宅して知ったことだが、静岡のトオル兄貴がはるばる遠見尾根に来ておられた。この陽気では雪が腐って大変であったろう。遠見でもどーんどーんと雪崩の響きが凄かったようだ。





山の神さま、ありがとうございました。お供えでございます。むしゃむしゃむしゃ。





風越トンネルを抜けよう。トンネルに向かう道肩には立派に育ったたらの樹が生えていて、樹頂には太い芽が出ている。手を伸ばすこともなく、眺めて味わいを思い出し、それでよしとした。





トンネルを抜け、車道から離れて森の中に降りて行く。見上げれば散りかけの山桜が美しい、沢沿いの荒れた道を拾う。地理院地形図には破線があるが、実際には道型はとぎれとぎれである。それでも、やがて集落に出た。





やはり見つけてしまうのだ。なにごとかがおわします気配を察し、そっと薮を回り込むと小祠が、とうことがしばしば起きる。この祠も、害獣よけの柵の側におわした。里と山と、すなわち異界との境界を守っておられるのだ。





山里に満ちる春。





原山集落の大洞秋葉神社の鳥居。長野県神社庁によると、名称は『大洞秋葉社』のようだ。御祭神はスサノウノミコト、カグツチノミコトの二柱。社殿には詣でずに通過した。本来は社宮司明神(みしゃぐち神)などを山ノ神としてお祀りしていたところに、記紀の神々に上書きされ、さらに明治期の神社合祀の流れを経ているのかもしれない。

帰宅後に気になって調べたら、祭礼では「お船」が曳航されるようだ。お船を使ったお祭りは、安曇野松本平によく見られるお祭りで、穂高神社のそれがよく知られている。古代の海人族であった安曇族が自らのアイデンティティを忘れぬために行われてきた、とされる。山国に定着しても、自分たちはあくまで北九州の海を起源とするのだ、という誇りの現れである。

そのお船の曳航がここ四賀原山の地にも伝わるというのは興味深い。安曇氏が消え去った理由も時期も、詳細は何も残されていないのだ。





原山集落から振り返る大洞山。反射板から少し離れて右の突起が石祠のピーク、左となりが山頂である。





いい感じの道祖神がおられた。この集落の道は善光寺街道の脇道と聞く。すると、わたしが辿ってきた沢沿いの荒れた道が、いにしえの峠道だったのかもしれない。





スタート地点に戻った。たんぽぽの咲く会田川のほとり、遠くに望む稜線は常念山脈南部の天狗岩から黒沢山、大滝山蝶ヶ岳のライン。春の真ん中を感じさせてくれる風景である。移ろう時の狭間を漂いながら、遠い歴史の「地層」の下に埋められた出来事の欠片が、いろいろと語りかけてくる、そんな半日の山遊びだった。山の神さまありがとう。