2018年6月30日土曜日

梅雨の終わりの梅仕事


和歌山産南高梅の熟し具合のよろしい物が出回り始めた。これが手に入る期間はごく短い。長期保存用に何キロか買い求め、またまた塩分20%で塩漬けしておく。







平日の夜に仕込める量は知れている。2キロ3キロと買い足しながら、仕込み、また仕込む。ジップロックの袋に日付とロットを記載して、カビの発生を見逃さぬよう、念入りに観察する。いまのところカビも産膜酵母も発生の気配は伺えない。アルコール消毒をまったく行っていないので、相応のリスクがある。このまま逃げ切ることが出来るだろうか。





この宝石のような南高梅の実の美しさ。買って来た前夜にはなかった「しみ」が出ている。急いで塩まぶしせねば。

わたしの手順は、以下の通りである。
まず、塩分は減塩なしの20%を守る。100年の保存を考えているのでこれは譲れない。次に、基本は白梅干しである。自家製ゆかりが欲しいがために、一部に赤紫蘇を使用する。梅は、保存用の「南高梅」と日常用の「白加賀」である。店頭で出来るだけ黄熟したものを選ぶ。これを水洗いしながら、成り口のへたを取り去る。笊に開け水を切るが拭き取りは行わない。続いて昨年の梅酢をたっぷりとどんぶりに注ぎ、梅酢に梅たちをくぐらせる。梅酢に濡れた梅の成り口を、粗塩に押し付けるようにして塩となじませる。梅酢の塩分が余計に加わるが、足らぬよりましだと考える。アルコールやホワイトリカーはあまり使用しない。あっても呑んでしまうからだ。

量が多い時はカメか桶を使用する。ちまちまと仕込む時はジップロックを使う。1キロの小分けにした袋も、天日干しの際に品種等級ごとにまとめる。干しながら若干の選別を行い、優、良、並と分けることもある。





南高梅は重しに気を使う。重すぎると潰れる梅が出るので、極力軽くする。それでも、梅酢にくぐらせるせいか、翌日には新しい梅酢に浸っている。こんどは袋を立てて空気を抜く。漬け物袋を広げた段ボールなどに立てて置き、何段にも重ねる。梅酢の漏れを時々確認しながら、カビを出さないように梅雨明けを待つ。

ところが、である。まだ仕込みも終わっていないのに梅雨が明けた。梅雨明け最初の週末は例年、天日干しである。ことしはこれが、塩漬けに追われる結果となった。









奥のが赤紫蘇仕立てにした南高梅の2L玉、手前のは小梅である。赤紫蘇のことは近いうちに書こう。ビンに寝かせておく場合、重しを次のように工夫している。

まずビニル袋をビンの口に被せる。その中へ、小さなジップロックに詰めた昨年の梅酢を乗せている。万が一こぼれても梅酢である。悪影響はまったくない。かれこれ十年ぐらいか。梅仕事を続けていると、自分なりの工夫が結果を伴ってくる。もうすこし上手に漬けたい、良い梅干しにしたいという「欲」はあるが、欲が前面に出ないように気をつけている。所詮は、梅たちに遊んでもらっているのだ。













2018年6月17日日曜日

ひじき大活躍


そのおとこのひるめしに、しばしば黒い物が写り込んでいる。しばしば、というよりほぼ毎日のことである。一体何であろうか。海藻のようだ。よくみればひじきである。





その日も、ひじきである。炒り卵に青葱を混ぜ込んだり、塩鮭のあらでほぐし身を拵えたりしているようだ。しかしそのおとこ、ひじきをかくまで愛するとは、過剰ではないだろうか。










秘密があるのだ。ひじきは梅味に仕立てられているのだ。

そのおとこの手作り梅干しは、減塩しない20%である。これを大量に仕込み、何年も保存している。ときおり、塩っぱくて塩の結晶が付いたような梅干しを塩抜きするのである。果肉の柔らかい南高梅では難しいのだが、果肉感のしっかりした白加賀を使うことでこれが上手くいく。20%のままでは塩辛すぎる昔ながらの梅干しが、練り梅やドレッシングはじめ、さまざまに使われるのである。梅を放り込んだ土鍋に水を張って、時々取り替えるだけである。ひと晩置けば、塩気は半分ぐらいになっている。







梅肉を使った男の手料理である。名付けて「ひじき大活躍」。梅肉とひじきの、佃煮なのか、まあふりかけのようなものである。ひじきはできるだけ国産品を探す。梅肉は、先述の通り塩抜きした物である。ごまは、善光寺さん御門前の八幡屋さんの辛いごまである。






ひじきを洗って笊に開け水気を切る。





これを、テフロン加工のパンで炒りつける。油は用いない。砂糖か味醂を加えても良いだろう。水気を飛ばしながら頃合いを見計らう。






梅干しは塩抜き後に水気を拭き取り、粗く刻んでおいた。






そろそろ良かろう。梅肉を混ぜる。これをのばすようにへらで広げ、梅の味と香りをひじきに移す。






ごまを投じる。これから麺つゆを適量注いで味をまとめる。先に入れた味醂の照りが出ている。梅酢も少し加えた。






調味料の水気が消えたら、あら熱を取って完成。タッパに保存するが、なぜか数日でなくなってしまう。どうやら家人がわたしの眼を盗んで食べているようなのだ。まったくけしからん。






ぬくい飯が捗る。
これひと箸を乗せるだけで、一膳のどんぶりが小宇宙に変わる。めし粒たちが歓喜に震えながら、わたしの口に入ってくる。大きめのどんぶりに替えよう。そう思った次に、炊飯器を一升炊きにせねばと気付く。さらには田んぼを.... そこまで考えて、毎年田んぼを買おうと決意しているのにまだ買ってないことを突きつけられる。

キンミヤとも響き合う。キンミヤに満たされた小さなグラスは、魔術かなにかのように空になっていく。そのうち、そのおとこ、どんぶりを抱いてめしを喰っているのかグラスを傾けているのか、自分でも解らなくなり、眠りにつく。こうした夜の眠りは深く穏やかで、翌朝はキンミヤのことすら忘れている。











2018年6月10日日曜日

薄葉に乗りて神来る



里山辺という地籍に、美ヶ原温泉『白糸の湯』という共同浴場があった。わたしが松本に移り住んだ頃だからもう20年ぐらい前だろうか、温泉街に親しまれた湯屋は廃されて近隣の人々は寂しい思いをした。これが、平成15年だったか、場所を南に移して新しく生まれ変わり、『ふれあい山辺館』として営業している。夏は朝6時から営業、300円で極上の天然温泉に浸かれるのでわたしもよく利用している。この美しい土曜日の朝も、わたしはここで湯にほどけて過ごした。


枕草子に「湯は、ななくりの湯、有馬の湯。那須の湯。つかまの湯。ともの湯」との記述が見えるが、こんにちの美ヶ原温泉、かつての束間の湯は、遥か遠く都にまで知られていたのだ。さらに、『日本書紀』には天武天皇が、畏れ多くも「束間の温湯に幸せん」と使者を遣わして湯殿を作らせようとした、とある。この計画は天武帝の崩御によって実現しなかったようだ。北となりの浅間温泉も「束間の湯」に比定されることがあるが、こちらは時代を下って10世紀の開湯である。どうやら清少納言が取り上げたのは、今日の美ヶ原温泉であろう。


休日の朝の湯浴みのことから千年を超える時空の旅に出てしまった。







この写真は、松本市街地外れの拙宅の裏から南東方向を眺めている。左寄りの奥に袴越山と美ヶ原の王ヶ鼻が見え、右は鉢伏山である。中央に薄川(すすきがわ)が流れる谷が開けている。この薄川が平野に出たところ一帯が、里山辺である。なお上流の山間部は「入山辺」と呼ぶ。

里山辺は、古代松本地方でももっとも早くから拓かれたようだ。積み石塚の『針塚古墳』、古い時期の巨大古墳『弘法山古墳』をはじめ、たくさんの古墳が確認されている。どうやら古代社会の中心地だったのだ。




その里山辺の「へそ」のような場所に鎮まるのは『須々岐水神社』。これですすきがわ神社と読む。五月の連休のある日、例大祭の『お船祭り』が催されていた。

海のない信州に「船」の祭礼も奇天烈だが、安曇野、松本平各地に同様の祭礼が見られる。もっとも知られているのは安曇野の穂高神社『御船祭』だろう。こちらは、古代に北九州から移り住んで安曇野を拓いた海人族である安曇族が、自らの出自を後世に伝える祭りだと考えられている。






鳥居の扁額には「薄水大神」とある。





祭礼当日である。須々岐水神社の境内には、屋台出店が立ち並び、こどもたちがフランクフルトを頬張り、盛装した氏子や参詣者で賑わっていた。






須々岐水神社の案内板。近くを流れる「薄川」の水神を祀ると書かれている。この水神さま、最初からここに鎮まっておられた訳ではない。境内の南側に、少し離れて『古社』が祀られている。さらに、山奥の「明神平」と呼ばれる場所には『奥社』があるらしい。これは、神さまは最初、山奥の『奥社』に降臨された。ここから薄川を下って里山辺の地に『古社』として鎮まり、のちに現在の『須々岐水神社』に移られたのだ。川を下る時にススキの葉っぱに乗って、と伝えられている。このためススキの葉は片側だけが擦り切れてしまったらしい。



水神さまの性格ということは、水稲栽培、つまり本格的なコメづくりを教えてくれた神さまと重なってくる。須々岐水神社の祭神は、諏訪大社の公式な祭神と同じくタケミナカタである。タケミナカタの神さまは、出雲から日本海側をたどり、信濃川、千曲川を遡りながら信濃の地に入り、コメづくりを教えた、という伝承が残る。この、タケミナカタと水稲栽培のはじまりというエピソードは上田の『生島足島神社』創建の由緒にあるらしい。十年ぐらい前に当の宮司さんが話してくれたことなので間違いあるまい(毎回だいぶん呑んでのことだが)。

タケミナカタの神さまが伝えたのはコメづくりだけではあるまい。考えるに、縄文時代の終わり頃には、原始的なコメづくりは小さな湿地などで細々と始まっていたのだろう。山際の谷地や平野部の低湿地などなどにおいて、春に籾を蒔いて秋に穂を採る、そのような原始的なレベルである。そこへ、タケミナカタが灌漑や用水といった土木技術も併せて伝え、水稲栽培が本格的に行われるようになったのではないか。

神さまが降臨したという場所、それは薄川の上流にある。山奥の明神平らに祀られているという『奥社』にお詣りしてみよう。カブを走らせて、わたしは薄川を遡る車道を走った。行き先は、扉温泉である。






温泉街には、といっても日帰り浴場と食堂、ほかに2軒の旅館があるだけである。その日帰り入浴施設の奥に向かう。空き地にカブを停め、車道を歩いてみることにした。正確な場所は解らない。いくつかのサイトの記述と地形図の等高線から見当をつけたまでである。





おわしたおわした。さほど長く歩くこともなく、緩斜面というより平地に近い場所に鎮まっておられる。





おや、御柱が建てられている。





タケミナカタの神さまをお祀りしているのなら御柱も必要であろう。余談だが、諏訪の地では、屋敷神だろうがお稲荷さまだろうが社宮司さんだろうが、社殿の四隅には、絶対と行っていいほど御柱が建てられている。小祠石祠にまで、四隅には御柱を建てる。松本平の南半分でも、こうした御柱祭りを行うところがいくつもある。この奥社の近くにも『大和合神社』という鎮守の神さまがおられるが、ここも立派な御柱が建てられる。『大和合神社』のことは別な機会に書こう。







こうして奥社の神さまと向かい合っていると、やはり、この神さまは、山ノ神であると思われてくる。山ノ神は、水神でもある。本格的な水稲栽培を教えられた人々は、水の恵みをもたらす山を祀り、田を潤してくれることを願ったのだ。



コメづくり自体は出雲からタケミナカタがもたらした、と伝えられている。このことは、さまざまなルートを経て大陸の文化を運んできた人たちが、のちのちにタケミナカタに習合されていったと考えて良いのではないか。

わたしはそこに、安曇族に代表されるような、海人族たちの存在を重ねてしまう。海の神を祭る穂高神社を創建し、連綿と船のお祭り行ってきたことからも窺えるように、安曇族は海の民である。海人族として列島沿岸に交易ルートを開拓し、おそらく大陸との交流も行っていたであろう。大陸の情勢、中原から河北に勃興する諸勢力の盛衰をリアルタイムに把握してきた人たちなのだ。そうしたプロセスのなかで、長江下流域に始まったとされる、水稲栽培の知見を得ていたに違いない。渡来人を運ぶ機会もあっただろう。彼らとともに土木や灌漑の技術を広めることにも携わったことだろう。

しかし、すべては有史以前の薄明の彼方である。古代に至り、わずかに文字史料が残され始めるが、安曇族は姿を消す。信州各地に残された淡い伝承の痕跡からは、多くを知ることは出来ない。







薄川の流れ。左岸に立って上流を見ている。この流れを、須々岐水神社の神さまはススキの葉に乗って流れ下った。ススキの葉とは、ススキで編まれた船を表しているのだろうか。







そして谷から平野に飛び出した辺りで岸に上がられた。これが『古社』である。祠の真ん前には石積みの古墳がある。『奥社』のおわす薄川の谷は右奥に見えている。



古代より少し前、水稲栽培を伝えた人々がこの里山辺に暮らした。コメづくりのために山ノ神、水神を祀り、奥社、古社、そしていまの須々岐水神社へと連なる伝承を残した。山に降りた神がススキの葉に乗って川を下るというエピソードは、何を物語るのだろうか。いまも行われる船のお祭りで受け継いできたことがらと重なってくるのではないか。このあたりになにか核心のようなものが秘められているように思える。祭りは、何か大切な事柄を風化させまいとして行われる。諏訪の『御柱祭』しかり、なにかを後世に確実に伝えんがために、受け継がれているはずだ。

わたしは陽光眩しい里山辺の田園に立ち尽くして、太古の人々が後世に伝えようとしたことに思いを馳せていた。答えが出るようなことがらではないが、もう少し考えてみよう。












2018年5月28日月曜日

平成最後の梅仕事はじまる

夏が兆してきた。

ある夜、拙宅の廊下でゴキブリがひっくり返ってもがいている。ゴキブリならば瞬時に体勢を立て直して隠れるであろうに、さては面妖な....。観察するとゴキブリではないようだ。紙をそっと差し出すと、掴まって這い上がってきた。コクワガタである。





どこから入り込んだものか、叩き潰さずに良かった。窓を開け、植え込みの小枝に逃がしてあげる。五月も末ともなれば、コクワガタが出始めるのか。いよいよ爛漫の春から初夏へと移ろうのだ。








翌朝、いつもの休日のようにどんぶりに飯を盛りいただく。肉豆腐の残りだったので自家製紅生姜が良く合う。これは梅干し作りの副産物、梅酢に新生姜を漬け込んだだけのものだ。今年もたくさん漬け込もう、そう思った瞬間に、昨夜のコクワガタはやはり、夏の訪れを告げる使者だったのだと思えてくる。







こどもたちにカレーを作ってやろうと買い物に出かける。休日のカレーは朝から仕込んで夕食に味わう。家人が作る時は豚小間肉だが、わたしは国産牛を使う。家長の威厳というものはカネで守るのである

売り場に、今年初めての梅、長野県産の青い小梅が売られていた。


やはり、コクワガタが夏を連れてきたのだ。1kgを求めて帰る。






『梅をパリット漬ける素』を初めて使用する。





青い小梅たちを洗って成り口のヘタを取り去り、風に当てる。中央奥の梅の樹は、昨秋に強めの剪定を施したので着果は見られない。来年のお楽しみである。




 

これは干さずに、固い実のまま仕上げる予定だ。しばらくのちに赤紫蘇を揉み込んで紅に染め上げ、冷蔵庫で保存する。夏から秋に掛けて、部活から帰ってきた子どもたちが口に放り込む、そんな場面を思い描いている。平成最後となる梅仕事は、こうして穏やかにはじまりを告げ、満ちて行くのだろう。ことし、どんな梅たちと出会えるだろうか。







2018年5月20日日曜日

胃袋と風景


拙宅の辺りでも田植えが始まっている。
おや、いまごろ?
そうなのである。気候とか品種ごとに適した時期というのがあるのだろうが、おおむね今頃である。拙宅の北側に広がる一面の田んぼに、半分だけ水が入る。半分というのは、毎年コメを植え付けるのではなく、コメを休んで蕎麦、麦の栽培を挟むからだ。1970年頃から「コメ余り」などという罰当たりな状況が続いており、本気を出してコメを作ってはいけないという、ニッポンの水稲栽培史の中でも異常事態と言わざるを得ない。







これは5月11日、安曇野市豊科の田んぼから常念への落日を眺めているところ。古代、北九州の海人族であった安曇族がこの安曇野を拓き、いつの間にか消え去った。彼らもコメを育てて食糧としたのだろう。いまとは品種が異なるだろうから事情は違えど、たとえば常念に落日を見るころを田植えの日としたのだろうか。





田んぼに水を入れれば、田んぼから落ちて来る水もある。そのために近所の小川は泥色に濁る。ここはあとひと月ほどすると蛍が舞うところで、シジミやカワニナが棲む澄んだ流れである。そしてこの濁りも、田を潤す水ゆえなのだから、これはこれで美しい季節の風景なのだ。

蛍が舞い始めると、梅干し作りの支度が始まるのでわたしは落ち着かなくなる。






駆け足でわたしの傍らを通り過ぎて行く季節の移ろいのはざまから、また恵みを頂く。いただいた恵みは天ぷらと言う美しい料理に昇華する。こういうのは酒が捗り過ぎて困る。






大酒した翌朝は、わたしは却って空腹を覚える。前夜に散々飲み喰いしたはずなのに、胃袋が欲するのである。残りの天ぷらをトースターに放り込み、どんぶりに飯を盛る。めしは出来るだけ高く盛りたいが、限度もある。一合半ぐらいで我慢をして、そこへ温めた天ぷらを乗せ、甘めの蕎麦つゆを垂らし、いただくのだ。

ご飯の甘さを噛み締めながら、豊葦原瑞穂の国に生まれ育ったことに感謝する。この星に米ある限り、わたしはどんぶりを手放すまい、そう誓う。加えてコシアブラもタラノメも米の美味さを「これでもか」と引き立てる。やはり一合半では足りず、ごはんをそっと追加する。





書斎の前の一輪草が満開を迎えた。昨夜もウイスキーが過ぎて寝過ごしたのである。昼ちかくに目覚め飯の支度をする。家族は誰も居ない。炊飯器のふたを開ける。保温釜がない。シンクに放り込まれている。部活に行った坊主たちが残らず食べて行ったのだ。






わたしはやむなく、300グラムのスパゲッティーニを茹でた。ミドルが三人前を食するというのも如何なものか、という思いが横切ったのだが、空腹には四の五の言っていられないのだ。

「米」を食することが出来なかった一抹の寂しさも、胃袋を満たしてしまえば「知るか」である。





うむ。米ばかりを作ってる訳にはいかぬのである。麦畑の青きそよぎも美しいものだ。今朝はコメではなくムギを食した後ろめたさを、麦畑の風景を前にぬぐい去ろうとしているのだ。

最近の考古学研究の成果を眺めると、水稲栽培以前、縄文時代の中頃には、大豆やエゴマといった雑穀栽培の痕跡が発見されていると聞く。それも、大粒のやつだけを選んで増やした形跡が見られるとか、なかなか有能なのである。三内丸山の縄文人も、栗を植えて利用するにあたって実の大きい樹から次の世代を選んだらしい。「栽培」と「農耕」の境界線がどこにあるかは知らぬが、われらが先祖たちは原始的な「採集」だけに依存していた訳でもなさそうである。

博物館などで見かける縄文のムラの復元ジオラマやイラストレーションには、住居の周りに森が広がっていることが多い。だがもし上述のように、縄文の人々が植物栽培を盛んに行っていたとするならば、ムラの一角には雑穀畑のような空間が広がっていたはずだ。森の中のムラではなく、こんにちの山村のような、明るく開けたくらしの風景があったのかもしれない。



風景は、胃袋に依存する。胃袋が欲する食材が変われば、風景も変化する。百年後、あるいは一万年後に、わたしたちの子孫は何を食べて暮らしているのだろうか。そのために、風景はどのように変わって行くのだろうか。思い巡らそうとして、朝飯がまだだったことに気付かされる。せめて、美しき田園の風景が永らえるよう、どんぶりに高々と飯を盛ろう。















2018年5月13日日曜日

御射山幻視行

序章〜奥宮の鎮まる森



この森に足を踏み入れるのは初めてであった。


浅間温泉から美ヶ原まで上り詰める林道から分かれて、細い杣道が通じている。国土地理院の地形図にも実線が描かれていて、女鳥羽川源流の山腹を巻きながら深い深い森の奥の「ある地点」で終わる。ただそれだけのことなのだが、わたしの興味を引きつけたのは「ある地点」に鳥居の記号が示されていることだった。こんな山深いところに神社が? いった誰が詣るのだろう。それは地形図を眺めるたびに呼び起こされる想念だった。


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5月のある日、わたしは休みを得て杣道の起点に立った。背後を、美ヶ原へ通じる二車線の舗装道路を車列が飛ばしていく。閂が掛けられた鉄のゲートをぎぃぎぃ鳴らして開き、また閉めた。杣道は未舗装路ながら、山菜採りの軽トラックなどが入るのだろうか、轍は深かった。




ほぼ水平に1時間ほどは歩いただろうか。作業小屋のような建家がある。鳥居の記号へは右に折れるはずだ。植林された落葉松の森から、白樺主体の明るい森に変わった。地形はなだらかで、幕営したくなるような平地もある。

わたしはアイフォーンの画面に表示された地形図にトラックログを刻みながら、鳥居の記号の場所に立った。そこは小ピークを成していて、いかにもお社にふさわしい場所であった。しかし、鳥居も社殿も無く、コンクリの枡と排気塔のようなものが埋設されているだけだった。





「ふむ。やはり既に廃絶されているのか」

こんな山奥である。近くを美ヶ原林道が通るとはいえ、人里からは隔絶されている。容易に参詣もままならぬところに、神を鎮めておけるはずもない。里のお宮に合祀されてしまったのであろう。わたしは、神社なんかとっくの昔に無くなっていた、という結論を得て、こんな奥地まで訪ねて来たことが莫迦らしくも思えていた。けれど気持ちの良い森はわたしを上機嫌にさせ、尾根伝いに歩かせることを決めさせた。背中のザックには珈琲道具を携えている。見晴らしの良いところで食事と珈琲を愉しもう。

わたしは気持ちの良い白樺の森をしばらく歩きながら、小鳥のさえずりを聴いていた。薮もなく歩きやすい。このまま尾根をまっすぐに登り詰めれば車道に出ることを予想していた。そのまま車道を下ろうか。やがてバイクを置いた地点に着くだろう。その時だった。






正面から顔面に突きを入れられたぐらいに衝撃を受けた。近頃はこういった場面に出喰わすことが多い。神さまはいきなり正面から現れるのだ。

地形図が誤っているのか、あるいはお社が遷されたのか、それは解らない。しかしこうして目の前に鳥居を見て、その奥に社殿がおわすことが予想されれば、頭を垂れるしかなかった。それから鳥居をくぐり、斜面を登っていった。その先には、荒縄で巡らされた結界の中に、神さまがおわした。





御射(みさ)神社、のっこば奥宮。のっこばとは乗越場であろうか、浅間温泉の御射神社春宮、三才山の御射神社秋宮の奥宮であった。積年、地形図のあの鳥居記号は、と疑問に思っていたその「なにごと」とは、何度もお詣りしている御射神社の山のお宮だったのだ。




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浅間温泉、御射神社春宮




御射神社春宮。

以前に暮らした浅間温泉町会を含む、本郷地区の氏神様である。10月の松明祭りで知られる。夕闇の中、稲わらで作られた巨大な松明が温泉街を引き回され、御射神社春宮まで運ばれるのである。翌日には「押鉾」と呼ばれる神輿の渡御がある。まだ赤ん坊だった長男坊主が、押鉾の上に飾られたすすきの穂の束が揺れるのを見て、腕を伸ばして触ろうとしたことを思い出す。

古くは山の神を祀っていたが、14世紀頃に地頭の赤沢氏が諏訪より御射山社を招いたと案内板などに書かれている。赤沢氏という氏族は、のちに松本城主にもなった小笠原家の庶流の家柄で、当地に居館を構えたらしい。本郷小学校の敷地だったか温泉会館だったかにもそんな案内板があった。

古くは山の神を?

諏訪から招いた御射山社が、そもそも諏訪明神の奥社、山の神のような性格を帯びている。その祭礼のことを調べると、狩りの神事や武芸の奉納が散見される。こうしたことから中世の武家氏族にとっては守護神として相応しく思われたのだろう。勧請の背景には原初の山の神との親和性の良さもあったに違いない。





春宮の拝殿。





春宮本殿。





春宮境内の石祠。このほかにも道祖神などが祀られている。浅間温泉に暮らした頃、ベビーカーを押して春宮への坂道を上ったものだ。そして赤い鳥居を見つけると、赤ちゃんだった長男が振り返ってにやりとする。そのかつての赤ちゃんは、いま二階の自室でThe Clashのアルバム『London Calling』を聴いている。この書斎から無断で持ち出したものだ。






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三才山、御射神社秋宮



御射神社秋宮。
春宮の松明祭りで、里におわした神さまは山に帰られる。田んぼを守って恵みをもたらし、山に帰っては翌春まで休まれるのか。稲わらの松明を焼く煙は、虫追いの役割を果たす。厄災を煙に乗せて追い払うのだ。同時に、田の神も煙とともに山に帰っていく。山に帰るには山にもお社が必要になる。そのお社がここ「秋宮」で、かつては春宮から秋宮へと押鉾の渡御があったと聞く。これらは浅間温泉に暮らしていた期間に見聞きしたことなので、誤りもあるかもしれない。







秋宮は、どちらかというと三才山の鎮守の趣である。三才山(みさやま)とは本郷地区において、女鳥羽川の上流にあたる土地の呼び名である。そしてその由来は、御射神社のおわす御射山の「みさやま」にほかならない。御射山の地名については、諏訪明神の奥社としての御射山社のおわすところ、という一般名詞で全国各地にある。煩雑を避けるため本稿では諏訪明神とのかかわりには、これ以上触れずにおこう。








拝殿前に、四つの本殿について説明がある。松本城の鬼門の守り、として崇敬された云々。






御射神社秋宮を訪れると、春宮よりいっそう山深く入った実感を伴う。三才山のさらに奥の戸谷峰、烏帽子岩などを歩いた帰りに必ず寄るのであるが、その理由が解った。社殿が北西を向いておられるのだ。鳥居から社殿には参道を南東に進む。南東を向いたまま柏手を打つ。背後の山が陽光を遮るために、社叢は暗く樹影が深いのだ。






しかしなぜ、社殿は北西を向くのか。参拝者の視線が向かう南東に、さらに何ごとかがおわすのだろうか。たとえば御神体とされる山がある、とかである。境内の案内板に拠ると、秋宮は「烏帽子の前宮」とある。




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烏帽子岩


烏帽子とは女鳥羽川源流に聳えるピナクル『烏帽子岩』で、秋宮から8kmほど東の尾根上に突き出している。古くから烏帽子大権現として崇められてきた。



これは女鳥羽川対岸を走る美ヶ原林道から。






松本・上田市境を通る蝶ケ原林道から間近に眺める烏帽子。





秋宮が烏帽子の前宮であるならば、烏帽子岩を遥拝する社殿の配置なら理解できる。しかし烏帽子岩はほぼ真東に近い。はたして、秋宮の南東方向に、何があるのか。長らくの疑問であった。






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結章〜遥拝の彼方に

地形図に記された、山奥の鳥居記号。そこは御射神社春宮・秋宮の奥社だった。その地に足を運んでみて、案内板までが設置され、わたしはひとつの謎を解くことが叶った。




『のっこば奥宮』の案内板の内容を記載する。

のっこば奥宮
御射神社の烏帽子岩に次ぐ第二の奥宮。建武時代(1334-5)赤沢氏の頃から神前に供える鹿の狩りをした場所で、仮寝の小屋の屋根や壁は穂の出たすすきで作った(穂屋)。現在も祭典にはここからすすきを取り、箸を作り、また穂をおしぼこにつけて回り各戸に配る。
平成9年11月 本郷地区景観整備委員会



そして、秋宮と『のっこば奥宮』の両方を訪れて初めて、ひとつの事柄が合致したのだ。



丸数字で4つの祭祀施設の場所を示す。丸にしなきゃ良かった。

 1=御射神社春宮
 2=御射神社秋宮
 3=のっこば奥宮
 4=烏帽子岩

この段階で、先に書いた疑問のひとつが解けた。

御射神社秋宮の鳥居の前に立って社殿を眺めると、南東の方角を向く。その視線の先には、『のっこば奥宮』が鎮まっていたのだ。上図の2-3のラインがこれを示している。また奥宮も秋宮の社殿と同じく北西を向いている。秋宮の鳥居から参道、社殿の配置がそのまま奥宮につながっているということは、奥宮の重要性を物語っているように思えてならない。上に転記した『のっこば奥宮』の案内板にあった「神事のための狩りの場所」という説明よりも、もっと深い理由があるのではないか、わたしはそう考えた。たとえば、最初に山の神が降臨された場所、というようなことだ。単なる位置関係の問題だけでは済まない、祭祀を行う上での理由である。

ここまできてわたしは、何となく戯れに、上図の2-3のラインを右下方向に引き延ばしてみた。スマートフォンの画面では見にくいかもしれない。




まさか、そこまでは考え過ぎであろうか。

御射神社秋宮の鳥居の前に立つ。視線は社殿を見ている。社殿の彼方には、山奥深くに『のっこば奥宮』が鎮まる。奥宮の社殿はこちらを向いている。そして奥宮の彼方には、美ヶ原の高原台地が広がり、王ヶ鼻・王ヶ頭が直線上に位置する。そして更なる先に、美しい円錐形の山体を持つ、蓼科山が聳えている....。

近隣の美ヶ原、王ヶ鼻・王ヶ頭あたりまでは妥当性があるだろう。とはいえ『のっこば奥宮』のある北麓から眺める美ヶ原は、特徴付けしにくい高原様にしか見えず、むしろ凡庸な山容である。あるいはそこが太古の人々の精神性に響いたのであろうか。ピークの連なりではなく広大無辺な天空の台地が、摩訶不思議な「テーブルマウンテン」として特殊性を帯びて受け止められたのかもしれない。事実、こんにちでも御嶽講関連の石像物が立ち並び、山岳信仰の祭祀の歴史が染み付いている場所だ。





蓼科山までラインを伸ばすことは、考え過ぎであろうか。

『のっこば奥宮』の向こうに美ヶ原を遥拝したことは十分に考えられる。同じ山塊である。その先に、蓼科山までをも同一ライン上に確認してしまうと、無視することも出来ない。上の写真のように、美ヶ原からは八ヶ岳の左に連なる格好で蓼科山の端正な姿が容易に望まれる。高原台地から望まれる蓼科のシルエットは、いっそうの神秘をかき立てたはずだ。





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古来、ひとは山を神々の世界、あるいは死者祖霊が帰っていく場所だと考えていた。様々な理由があるだろう。そしてその理由のひとつに、わたしはこう考えている。

雲である。

その巨大な山体を、一天俄かにかき曇ったと思えば、山は姿を隠すのである。例えば拙宅のこのデスクから、晴れた日ならば戸谷峰1,629mが見えている。それが、今日はあいにくの雨で見えはしない。その巨大な姿を自在に顕わしたり隠したりする能力をもって、山とはとてつもなく凄い力を備えている。風景を瞬く間に変えてしまうことが出来るのである。科学的知見を持たなかった太古の人々には、神威とはまさにこれだろう。さらに、山を隠した雲は雨となって大地を潤す。すべて恵みである。

山は、神そのものだった。








信州ご出身の歴史研究家でハッシー27さんという方が、日本中の神社仏閣遺跡などを訪ね歩いて記事にしておられる。>>『ハッシー27のブログ』
たとえば神社であれば祭神の考察から創建に関わった古代氏族の趨勢、古今の地名や地理的な結びつきなどから、歴史の地層に埋もれた様々な事柄を解き明かしてくれる、とてもエキサイティングなサイトをご紹介したい。このサイトに御射神社探訪の記事があるのでご参照されたし。わたしの勝手な思い巡らせとは異なって、奥深い古代史理解のベースの上で展開される、御射神社のあれこれである。