2018年1月3日水曜日

旅の異能者たち

気がつけば、新しい年を迎えていた。

年神さまをお迎えしたら、もうすぐ松本の城下町で『あめ市』が催され、大いに賑わう。あめ市という行事は、そのむかし戦国の世の出来事に由来する。武田、上杉、そして今川の熾烈な勢力争いの挙げ句、武田支配下にあった信濃のこのあたりには塩が届かず民は困窮した。それを看過しなかった不識庵謙信は、敵領にも関わらず塩を送った。「敵に塩を送る」の故事である。これを、数百年を経てなおいまでも、松本のまちでは祝うのである。

そんなことをぼんやり思い浮かべていたら、越後から塩が運ばれて来た古代からの道筋が、わたしが棲むまちを通っていることを思い出した。「千国街道・塩の道」と呼ばれる古道で、上越糸魚川を起点に、信州塩尻に至る。塩の道の終点が塩尻というのは解りやすい。



糸魚川から姫川の流れを遡ってきた塩の道は、さのさか峠を越えて仁科三湖の畔を巡り、安曇野・熊倉の渡しで犀川を渡る。ここでなぜか奈良井川に沿わず、山越えの養老坂という難所を経て松本のご城下へと向かう。上の写真は養老坂の上りのあと、小峠のような地形から、松本市街地の北部が見えてきたところ。眼下の集落は岡田塩倉というところで、中央に写っている建物は古刹『塩倉山 海福寺』の観音堂だ。塩倉の字(あざな)が示すように、上越から塩の道を運ばれてきた塩などの海産物が集積されたのだろう。海のめぐみを「福」とするお寺の名前も、こうした歴史を伝えているように思える。左奥は浅間温泉の温泉街。

お堂の右に、大きな樹が見える。枝垂れ桜の古木で、春には素晴らしい開花を魅せてくれる(この桜のことも旧blogでさんざん書き散らした)。

正月の穏やかな空の下に、お堂と古樹。わたしは黙って手を合わせ、それから春の花が開いたらまた参ります、と観音様に申し上げた。



これが春の開花の頃(2014年春)。素晴らしいのひと言に尽きる。

ここから塩の道は、いまではのどかな田園風景の中を辿り、善光寺街道と合わさって御城下に入る。



戦国のころ、その年その日、上越の海岸から牛馬の背中に積まれ運ばれた塩の俵が、やはりこの塩倉の集落を出立したのだろう。まだ冬枯れの景色の中を、牛馬の列がゆっくり歩んでいった様子がまぶたに浮かぶ。



海福寺さんの観音堂から南東方向、薄川の谷を眺める。松本のお城は丘陵の陰になる。

遠く左奥に三峰山(1887.8m)、中央は鉢伏山(1928.8m)から高ボッチ。三峰山のすぐ向こう側は和田峠、そして霧ヶ峰である。霧ヶ峰から八ヶ岳の山麓にかけて、そこは縄文遺跡の密集地帯。大規模な集落が営まれ、長期にわたって一種の文化圏が栄えていた。近年の考古学が明らかにしているように、出土する遺物、遺跡 の規模、また国宝のふたつのビーナス(土偶)が示すハイレベルな文化的要素を眺めれば、もっとも先進的な場所だったのかもしれない。

この文化圏を支えたのは、きっと霧ヶ峰で産出される黒曜石だったのだろう。黒曜石というのはガラス質の火山性物質で、矢じりやナイフといった石器の材料にされる、当時最も貴重だった物資と考えて良い。とくにここの黒曜石は、量質ともに他を圧倒する。縄文時代、これら原石や製品が各地へ、遥か北海道まで運ばれて、石器として使用されたことが判っている。



霧ヶ峰方向を眺めていたら、背後の糸魚川から来る塩と、霧ヶ峰から運ばれる黒曜石が行き交う様子がまぼろしのように浮かんできた。 ヒトがいのちをつなぐためには、海の塩が必要だった。八ヶ岳山麓の縄文人たちも、塩を必要とした。南側の太平洋からも塩は来ただろうが、わたしが立っている場所、日本海へ続くこの道からも塩が運ばれて来たのだろう。

塩の道がいつの時代から使われてきたのかは、解らない。 しかし、人が通る道筋、歩けるルートというのは古くから自ずと決まってくるもので、山野を隈無くどこでも歩けるというものではない。また河を渡るという 「徒渉」の問題があり、橋や渡し船がなかった時代には、交通路は固定されていただろう。そう考えれば、歴史に残るよりもずっと古く、コメ作りも文字もなかった時代から、人々はこの古道を歩き、黒曜石や塩を運んだと考えて間違いない。



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黒曜石や塩などの物資はどうやって運ばれ、伝搬していったのだろう。

Wikiによると、飛鳥時代から、道路網の整備、宿駅伝馬制などが行われていた(Wikipedia「日本の古代道路」の項)、とある。

これらを眺めると、古代国家形成期以降の交通や旅の様子を窺い知ることはできそうだ。例えば、山上憶良が書き残したように、東国から「防人」に赴いたひとびとの悲哀が万葉に歌われているし、都から地方に遣わされた役人の記録も残る。

気になるのは、それ以前のことだ。ニッポンの夜明け前。街道も交通も、いまだ整備されざる太古。コメや鉄が伝わる以前の原ニッポンのころ。誰がいかにして、塩を携え黒曜石を運んだか?



これまで考えられてきた、縄文人のくらしや姿という視点から導くとこうなるだろう。

竪穴式住居を建てて集落(ムラ)を営み、自給自足で、どんぐりを拾って野生動物を狩って魚を釣り、雨の日は粘土をこねて土器を作った。まあ時には、隣の集落と物々交換で食べ物や物資を分かち合っていた

こう考えると、黒曜石や塩の移動(伝搬)も、物々交換という仕組みの中で行われてきたようだ。ある午後、隣ムラの男が疎林の中の小径を拾ってやって来る。ムラの広場でどんぐりをすり潰している男に、ドヤ顔で声をかけ、黒曜石の矢じりを自慢する。

「ほれヒロシ、これな黒曜石、霧ヶ峰の一級品やで」

「おおシゲルええなあ、わいの獲った鴨と交換せえへんか」

「一級品やからなあ。
 これで射たら、鹿でも熊でもプスーのグサーやで。
 ほんでカルビでもロースでもパクーでウマーや」

「じゅるっ。ええなあカルビ、パクーかいな」
 
「せや。霧ヶ峰やからな。鴨二羽ならええで」

「うーんこの。お、塩が残ってたはずや、塩付けたろ」

「ほなら、ええで」


ヒロシとシゲルは黒曜石と塩(鴨肉付き)を交換した。このように、物資も情報も、細々と各地へと広まっていったのだろうか?



縄文時代の日本の人口を推定している研究がある。
一説に、最大で26万人。別な説では約10万人とあった。現在の人口配分で計算して、僕の棲む松本盆地に暮らすのは、全縄文人の0.4%としてみる。最大26万人説で0.4%とすると1,040人、一世帯4人として260戸の竪穴式住居である。ひとつの集落に10戸として、26の集落である。

おい、松本盆地の塩尻から大町までムラが26? ずいぶんスカスカじゃないか。
それでも塩の道沿いには、点々と集落があったはずだ。数時間歩けば辿り着く場所に隣のムラがある。

つまりは、縄文時代における信州の真ん中らへんの人々の交流は、せいぜい隣ムラまで往復できれば良く、狩りや採集で山野を駆け巡っていた縄文の人々には日常的なことだったのだろう。


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そんなことを考えていたら、
『KOzのエッセイ〜縄文の謎 (2) 交易』という記事に出会うことができた。これはなかなか鋭い視点で明快に書かれた内容で、これまで考えられていたところの縄文暮らしのスタイルを、やや書き換えていくような要素が盛り込まれている。少しだけご紹介すると、こういうことだ。
高度な技術で制作された磨製石器や洗練された土器、こうした製作作業においては、人々が自給自足的に「片手間に」担うのではなく、かなりの専業化が進んでいた。同様に、製作作業だけではなく、専業の運搬者、交易者が存在し、流通においては原始貨幣、自然通貨のようなものが存在した。(筆者要約)


うむ。メカラウロコである。縄文時代、自給自足ベースという基盤の上に、専門性の高い分野では専業化が進んでいた、原始的な経済システムも胎動し始めていた。上の記事には、その根拠となる発掘・研究の事例紹介も含め、客観的な考察が含まれている。そう、こう考えた方がしっくり来る。すぐる夏に、となりまちの塩尻で縄文土器の展示を眺めた。その造形、装飾に込められた表情、今でも共感できる願いと祈り、どれも素晴らしいものであった。KOz師が書いておられるように「片手間に」作り出されたものとは思えない。やはり、匠というかアーティストと書くべきか、言わばゴッドハンドから生み出されたものと考えるべきだろう。



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ここで、上に書いた「専業の運搬者、交易者」について少しだけ考えてみよう。KOz師のテキストでは「獣道に近い自然道を見極めながら目的地に到達する道案内人や経験者」とある。つまり、旅のプロフェッショナルだ。GPSも、ゴアテックスもビブラムも無かった時代に、大地を踏みしめ沢筋を登り岩稜を越えて物資を運んだ、我らハイカーとしての大先輩だ。季節ごとに踏破可能なルート、枯れることの無い水場、雨露をしのげる安全な野営地を知っていたのだ。オオカミを寄せ付けない知識、悪天候でも焚き火を起こせる技術、軽量でコンパクトな装備と携行食糧、山野で現地調達できる素材を活かす生活技術、貴重な荷を安全に目的地まで運ぶノウハウ、あるいは旅の途中で狩りを行ったかもしれない。まさにアウトドア/ブッシュクラフトのマエストロにしてサバイバル・マスター。

ソロだったのだろうか。パーティーを組んでいわば商隊のように行動したのだろうか。どちらもあり得ただろう。ソロで遥か山脈の彼方を目指した旅人もあったはずだ。卓越した技量のリーダーのもと、長大で困難なルートを越えて行った一団もいただろう。現代人には想像も及ばぬ旅の技術を備え、縄文社会のニーズに応えていた「異能者」たちが確かにいた、わたしにはそう思える。

信州のような中央高地とは別に、沿岸部や平野では、丸木舟を使って河川の奥まで遡上し、物資の交易を担った地域もあっただろう。実際に北海道や南関東では縄文時代の水上交通を軸にした研究事例もあるようだ。海を、陸を、山野を、縄文の旅人たちは航行闊歩したに違いない。



つまり、ヒロシは、シゲルに、霧ヶ峰の黒曜石を譲らなかった。

なぜなら、シゲルは鴨一羽と換えてくれ、などと言うが、遠くには黒曜石の稀少価値を知り、鴨肉などと云わずひと抱えもある塩の壺を差し出してくれる相手を捜すことができたからだ。

ヒロシは、数日かかってでも直接糸魚川まで出向き、より有利な取引を行ったかもしれない。さらに踏み込んで書くならば、KOs師のテキストにあるように、交通の要衝みたいな場所には物資の集積所のような「ハブ」が成立していて、「市」としての場でさらに有利な商いをしていたかもしれない。

え? 縄文時代に、もしかしたら市が存在していた?
ならば「暦」の概念、もしかしたら冬至夏至、月の満ち欠けなどを基準にした日付と時間感覚があったかもしれない。うわあ、凄いことだこれは。わたしが書くことだから、根拠は何も無いが。



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そういえば、この辺りのそこかしこから縄文時代の遺物が出る。

拙宅の敷地は、縄文遺跡の指定地にある。ふと思って隣接する畑の片隅に落ちていた土塊の欠片を拾って眺めると、縄目のような文様が見える。この欠片が縄文時代のものかどうかは判らないが、うちの坊主は黒曜石の欠片を拾ってきたことがある。



五千年ほどむかしのある日、黒曜石を携えた縄文の旅人が、あるいは海産物を運ぶ人々が、拙宅の場所にあった集落に立ち寄ったかもしれない。貴重な塩や干し魚を携えた旅の一団がしばしば通るこの集落では、彼らを迎え、もしかしたら期待を忍ばせて歓待し、交流したのだろう。

遠い土地の様子、諏訪の湖とは比べようもなく広い海のこと、舐めれば塩っぱい水のこと、海辺の風景のこと、そんなあれこれを語らい合うのは、古い古い時代の原始的な日本語だったのだろう。海を見たことがないこの山国の集落の民は、どんな表情で話を聞いたのだろう。どんな想いを、未だ見ぬ地へ馳せたのだろう。



穏やかな正月の日に、縄文の旅人が行き交ったこの場所に立ち尽くし、脳裏の幻視は浮かんでは消え、そしてまた幻像を見た。