2019年12月31日火曜日

ブッシュ・クラフトの日


冬の一日、お頭から招集が掛かると、わたしたちは森へ出かける。

出かける場所は決まっていて、とある森の一角で赤松の小枝を集めるのだ。森の傍らには清流が流れている。花崗岩質の白い砂が美しい流れだ。ここで集められた赤松の小枝は、わたしたちが住むまちの人々に配られ、その玄関を飾る。古い年は過ぎ去り、新しい年が訪れる。松が取れる、と書くように玄関を飾った赤松の小枝が外され、町内の子どもたちがこれを再び集める。集めて広場へ運び、小正月の道祖神の祭礼が催される。当地ではこの祭礼、行事を『三九朗』と呼ぶが、どんと焼き、左義長と書けば解りやすいかもしれない。

三九朗のことは、来年の行事が行われた後でまた書こう。





例年、わたしは剣鉈と鋸を携えて森に入った。今年、手製のプーッコを加えてみる。先ごろに書いた花梨ハンドルの一本だ。写っている革ベルトには少し思い出がある。もう三十年もむかし、日本海べりを歩いて旅していた。春頃から歩き始め、真夏を過ぎた日のことだった。能登の静かな海岸で、この革ベルトはある事情からわたしの所有物となった。以後、こうして年に数回、腰に巻かれる。わたしは普段、finetrack社の『ストームゴージュ・パンツ』というスボンを履いている。秋から冬は同じく『ストームゴージュ・アルパインパンツ』に変わる。だからベルトを必要としていない。






鋸は、いつもケツのポケットに刺していた。せっかく下手くそな革細工を覚えたのだから、と前夜に床革で鋸のケースを作った。レザークラフト、と書けるような立派な手技ではない。本当に下手くそに革を切り穴をあけ糸を通すのだ。

登山用のシュリンゲ、これには使い道がある。沢登りをなさる方はご存知だろうが、伐り集めた松の枝を運ぶのに重宝するのだ。






花梨ハンドルのプーッコの鞘を見てほしい。とてもクラフトと呼べる代物じゃない。けれど、このプーッコにも鞘にも、とてつもなく深い愛着がわいている。眠るときは枕元に置いて、夜中に目覚めた時にはそっと手を伸ばして触れてみるほどだ。


自分で作った道具を携えて、森に入る。森の中の作業は単純で、そこに冒険の要素は無い。ところが、枝を切る、縄を切り揃える、竹を割るといった単純な作業に歓びを覚える。鋸をケースから出す、戻す、そんなひとつひとつの動作に道具たちとの対話が生まれる。何と愉しいことなんだろう。もうあと半日で、この一年が暮れる。やがて次の招集が掛かり、小正月の朝、わたしたちは竹林に出向く。すっくと伸びた孟宗竹を数十本切り、大きな三九朗を作るためだ。その日のわたしの腰には、この革ベルトと剣鉈と鋸がぶら下がっている。そして花梨ハンドルのプーッコも。おっと、いまチンチャン(手違紫檀)ハンドルの一本を手がけているから、プーッコは替わるかもしれない。











2019年12月22日日曜日

あるご先祖さまのこと

ずいぶんむかしのご先祖さまのことを書く。



場所はたぶんアフリカで、あの大陸の何処かだと思う。そのころ、誰もが石の塊や木の棒、あるいは動物の骨を道具として使うことを知っていて、生き延びるためにそうした道具の工夫を続けていたのだ。そうしたなかで小さな奇跡が起きた。新大陸の発見とか、天王星の発見とか、ふうっと霞んでしまうぐらいの大発見だ。あるひとが、割れた石くれの鋭利なエッジが、肉や毛皮を切り裂くのに適していることを発見したのだ。エッジは、ほ乳動物などの獲物を仕留めて肉を切り分ける場面で使われたことだろう。かぶりつく、引きちぎる以外の効率的な方法を得たのだ。これにより、手に入れた食糧を咀嚼する、つまりエネルギーに変える時間が短縮され、また他人やほかの肉食獣に横取りされるリスクが軽減され、彼、あるいは彼女は生存していく上でやや優位な状態に置かれることになった。わたしは、この鋭利なエッジを使うことを発見したご先祖さまに、全身全霊でお礼を云いたい。ありがとうグッジョブ。



さらにある時ある場所で、もうひとつの奇跡が起きた。較べれば火薬、羅針盤、活版印刷の発明なんてゴミカスだ。ある天才的な知性を備えたご先祖さまが、石を意図的に割って鋭利なエッジを作り出すという発明を成し遂げた。このご先祖さまは、世界で初めてナイフを作ったのだ。ものすごいことだ。ナイフを作れるご先祖さまの集団は、これにより獲物の肉を切る、土を掘る、植物の組織を刻むなどの知識と技術と道具を手に入れ、生きていく上でさらに優位な立場に立ったのだ。他の集団が食糧不足で、あるいは気候変動への適応が困難で、ほかにもさまざまな理由で生存が不可能になったような場合でも、生き延びたり集団を維持したり、そして子孫を残したりすることが可能になったのだ。わたしは、この初めてのナイフを作り出した発明家のご先祖さまに、万感の思いを込めて言いたい。あんた最高だよ。



こんにちのブッシュ・クラフトと呼ばれる世界を伺い覗いてみると、一本のナイフからマグやカトラリーなどの生活道具を作り出す光景が見られる。そう、一本のナイフは、次なる様々な道具たちを生み出すことが出来る「母なる道具」といえるだろう。道具を作るとは、何を意味するだろうか。先に書いた肉を切る例にとどまらず、要するに自分の置かれた環境、あるいは状況を、より適切で好ましいかたちにイノベートしていくことに他ならない。道具を作るとは、生産性を上げたり、安全性を高めたり、快適性を得たり、大きな恩恵をもたらす行為なのだ。そしてどのような道具が必要か、道具の素材や機能を考えるという行為は、大脳の発達、手と指の発達に多大なる貢献をしたはずだ。ナイフの発明が何十万年前の出来事なのか、わたしは知らない。仮に百万年前の出来事として人類史に刻むことが出来るなら、わたしたちは少なくとも百万年、考え続けているのだ。考えることを止めた集団は巧く適応が出来ずに消えていった。考え続けた集団のそのまた一部が、遺伝子を残した。そのエリート集団のひとつから、あるときある場所でホモ・サピエンス・サピエンスが登場し、一部がホモ・ネアンダルターレンシスのDNAを受け継いで、アフリカから地球上へと広まっていったのだ。ナイフとは、知恵の道具だ。知恵の道具を獲得し、活用し、イノベートできたわたしのご先祖の一人は、三万年ぐらい前にこの列島に辿り着き、仲間を増やしていった。


そんな大昔のことを何故お前が知っているのか、だって?

この問いには、完全なる答えをわたしは持っている。それは、わたしが今こうして存在しているからだ。わたしの遺伝子は、宇宙から飛んできた訳じゃない。







松本市内の丘の上に、わたしの岳父の墓所がある。正月を前に掃除に行ってこよう。泉下の父祖たちへの感謝をこめて、この国では普通に行われる行為だ。午後の予定は? フィンランドから取り寄せたブレードに、ハンドルを接合してある。タング末端のカシメも済ませている。少し削っておこうか。それともレザーシースの仕上げが途中で止まっている。おっと、友人たちへ贈る予定のプーッコのハンドル選びもまだだ。すごい発見を成したご先祖さま、ありがとう。すごい発明をやり遂げたご先祖さま愛してるよ。わたしは、あんたがたが人類史に打ち立てた金字塔を、その誉れ高き行為のことを忘れない。西暦2019年の終わり近くに、地球上の全人類を代表して礼を言いたい。生きるって何だろうね。ようやくそれが少しだけ解り始めたから、こんな書き方するけどね。神奈川の或る神社のお祭りのことだ。悠久のむかしに鎮座していた場所が古社として残されていて、祭礼では神輿が古社へと渡御すると聞く。かつて集団が古社のあたりに栄え、そして今の場所に移ったのだそうだ。そのことを忘れずに、毎年の「例祭という記憶装置」を働かせているのだ。ご先祖さま、忘れないよ。あんたがたは石を探したり、割ったり、工夫したりしたんだね。わたしは、フィンランドから半完成品のブレードを取り寄せるような横着をしてるけど、いつか自分で鍛造してみせる。ハンドルを工夫する以上に難しいのは解ってるけど、あんたがたへの敬意を混めて、やってみようと思う。生きるって何だろう。それは意識的な行為なのだね。受動する、待ち受ける場面もたくさんあるのだろうけれど、みずから進んで獲得していかなければならないものなのだろう。最後にもう一回だけ書く。遠い遠いご先祖さま、あんた最高。
















2019年11月24日日曜日

花梨ハンドルのプーッコ


北欧ナイフでの手遊びがまだつづく。来年あたりからはプーッコ関連の投稿は別サイトに移そうかと思案しているので、もうしばらくご容赦を。




ラウリの炭素鋼ブレード、ファクトリーメイドながら結構な切れ味で、さくっと抵抗無く喰い込み、ざりざり言わずにすっと切ってくれる感触が気に入っている。もっとも、航空便で届いた後にフルスカンジでベベル面をいちどきれいに研ぎ直したうえ、プーッコ完成後は天然砥石で砥糞を使って丁寧に刃付けし、革砥でストロッピングを施してのことだ。

ハンドル材は松本市内のホームセンターの木材コーナーから調達。何種類もストックしてある中から、一度使ってみたいと思っていた花梨を選んだ。




ドリリングに関してはここで書かないが、効率と精度を考えてボール盤を購入しようと決めた。北欧のプーッコメーカーさんたちの多くが、(ネットの画像を眺める限り)バイスに挟んだハンドル材に手持ちのドリルで穴を穿っている。これが難しい。





わたしとしては、一種のブレークスルーを経験できた忘れ得ぬ作品でもある。以前に書いた『黒革のプーッコ』で少し触れたが、タング末端のカシメの課題が解決できたのである。同じ志を、という奇特な方も居られぬだろうが一応書いておく。

カシメに使用する治具を作り直し、挟んで固定するトルクを向上させることでカシメが容易になった。カットした2x4のSPF材を2個使用し、写真のように4本のボルトでブレードを固定する。緑色のマスキングテープの部分がブレード、赤褐色のブロックが花梨のハンドル材である。ブレードを挟む木片が見えているが、これは治具の面を凹ませないために使用している。このとき、ハンドル材は治具に接触させない。ハンドルの上に突き出しているタングの末端には焼鈍処理を施し「ソフトに」してある。この状態でタング末端をハンマリングすると、実に容易にカシメを行うことができた。




エポキシでグルーイングを終えた本体の様子。





タング末端のカシメ部分がマッシュルーム形状になっているのがお解りいただけるだろうか。このあとさらにハンマーを当て、影になっている部分まで潰し込んである。




ベルトサンダーでハンドル形成を行う。粗い番手でハンドルの形状を削り出していく。





花梨材は固くてなかなか削れない。そこで厚みの方はプーッコで削ってみることにした。

いやはや、硬い。




ざっくり形を探り出した後に、ベルトサンダーに戻る。結構な時間をかけてここまで削り出した。ハンドルの左右に「稜線」のある形状にしてみようと考えている。





150番、240番と進んでここまで来た。朝6時頃から朝飯抜きで午前中を費やす。




午後、さらに番手を400番、800番とすすめてこの状態に。





夕方で光量が足らず、ぶれている。1000番、2000番とハンド研磨を施してアマニ油を塗り込んだ。





前日のブレード研磨、ハンドルの準備、フロント/エンドのブラスの削り、組み立て接着で半日作業。この日はハンドル研磨で一日を使い切り、夕暮れ、遠く鉢伏山を眺めて乾杯を楽しんだ。シース作りは来週末に。







2019年11月16日土曜日

まぼろしの巨大積乱雲

その日、わたしが眺めた積乱雲


2011年7月14日19 時過ぎ、北ア表銀座の西岳テン場から写された何枚かの写真が残っている。旧blogにも書いた出来事だが、その旧が消えてなくなってしまったのを機会にここに採録しておこう。





暑い日だった。わたしは、表銀座西岳のテント場から槍を眺めていた。北鎌尾根の稜線の突起をひとつずつ数えるように、その峻険な尾根を辿る日のことを夢想していた。テント場の白い砂はまだ日中の熱を残していて、風が絶えると地面からの輻射で汗が流れた。








だんだんに槍の穂先のシルエットが濃くなってきて、北アの稜線が夜の帳に包まれようとしていた。刻一刻と移り変わる槍の風景にも飽きてきたわたしは、何となく背中の方から邪悪な視線のようなものを感じた。



誰かに覗き込まれている?
そんな気配を感じたわたしが、ゆっくりと背後の常念岳を見やった時だった。



昇ってきた月が蝶ヶ岳の上に居る。そして常念岳の山頂あたりに雲がまとわりついている、と認識した瞬間に違和感を感じた。常念山頂付近の小さな雲は槍穂の稜線の影でもう暗い。遠い空にいくつもの積乱雲、こいつらは夕照に染まって高い空に居ることを示している。その、さらに向こうに居る巨大な雲は何だ? 金床型に広がっている。オレンジ色に染まったいわゆる入道雲たちよりも遥かに遠くにあるのに、その高さたるや....。

わたしが感じた邪悪な視線の正体とは、信じがたいほどの巨大積乱雲だったのだ。





巨大積乱雲は、低い所にある雲たちが光を失ってもなお、遠く高い空で輝いていた。のみならず、いく筋もの稲妻が走り内側から輝きを放っていた。音も轟も、聞こえてこなかった。





検証、巨大積乱雲


ゲリラ豪雨なる言葉が多用され、メディアでも流れていた。あの雲の下ではもの凄い雨が降ったことだろう、そう思ったままわたしは巨大積乱雲のことを忘れ、日常に埋没していった。2015年の冬のある夜、HDDのフォルダを開いたらこの雲の写真が出てきてその宵のことを思い出していた。


まず、地図を広げたりしながら、あの雲があったのは埼玉県秩父市辺りだろうと見当をつけた。秩父市でなければ延長線上には、川越、さいたま、松戸、鎌ヶ谷あたりのどこかだ。


このアメダスのページは、その日の秩父市の1時間あたりの気象の変化を記録したデータである。>>秩父市 7月14日

午後にわずかな降水があったようだが、これか。


見つけた。15時に秩父の南西、観測点「浦山」で14ミリの降水記録がある。>>浦山 2011/07/14


いや、時間帯が違う。これより4-5時間後だ。それに14ミリでは大した雨量じゃない。すると秩父よりもっと遠くか?設定する地点を変えて、手前の信州佐久エリアから西上州、そして埼玉から東京湾岸にかけて何カ所かを調べてみた。

おかしい。豪雨と呼べるレベルの痕跡が見られない。延長線を振ったりしながらさらに調べてみた。よく報道で見かける「その日、各地の降水量、棒グラフ」を見ることができれば地点捜索は容易である。しかし降水量のランキング、という探し方が解らなかったので、各地の「1時間ごとの値」を丹念に探して回った。


解ったことは、わたしが調べた限りでは、アメダスにはゲリラ豪雨の痕跡が見られなかったということだ。





目撃者を捜す


アメダスからは何も知ることは出来なかった。しかしあれだけ大きく発達した巨大積乱雲である。たくさんの目撃者が居て、SNSその他に投稿された画像などがあるのではないか。そう考えたわたしは、まずヤマレコの投稿を探った。

平日だから山に来ている人は少ないだろう。それでも、唐松岳、燕岳、奥穂、富士などの各地からあの積乱雲が写し出されている。山座同定の要領でエリアを絞っていくとやはり秩父方面だ。いや、もう少し東側、青梅から狭山の辺りだろうか。雲がでかすぎて方向感覚がおかしくなりそうだが、東京西部、埼玉南西部の可能性が高い。時間帯はみな、日没ぐらいである。



続けて短文投稿サイトを眺めた。

キーワードは「巨大積乱雲」、日付を2011年7月14-15日の期間。すると5件の投稿がヒットした。

練馬の北の方、東京から西を見ると、西東京の方、などと呟かれている。画像を見ればわたしが北アから眺めた形の鏡写しである。間違いない。あの雲を見た人々が存在するのだ。キーワードを変えてみる。「ゲリラ豪雨」、期間を2011年7月14-15日。するとヒットはあるが「すげえ雨が降ってきたまじやばい」的な、リアルなレポートが無い。雨は降らなかったのだろうか。



ググってみた。有望な情報に出会えた。2019年11月15日現在で閲覧できる二件についてリンクを貼っておく。

  >>河合正明さんの天体写真ギャラリー(圧巻!)

  >>イラストレーサーさんのサイトの記事



やはりあの雲は、あの巨大積乱雲は確かに存在した。しかし、降った、降られたという記録がどこにも無い。情報の探し方を間違えているのかもしれないが、出会えない。出会えないでいるから、わたしの中ではあの巨大積乱雲は、やはりまぼろしなのである。







2019年10月16日水曜日

黒革の短刀


以前に牛革を積層してプーッコのハンドルを試作してみたことは既に書いた。同様に何本か作ってみようと考えを巡らせていたら、「トコ革」なるマテリアルの存在を知った。要はレザーの表面を剥いだ後の残りのような素材で、ヌバックや芯材などに使われるようだ。これが廉価で手に入るので、レザーワッシャーに応用してみる。




床革、とも書くようだ。光沢のない質感である。写っているのが普通のレザー(植物タンニン鞣しのヌメ革)をハンドルにしたプーッコ。革を切ったり木を削ったり、プーッコ作りに重宝している。




30ミリx40ミリにカットしてタングを通す穴をあけておく。レザー用の穴明けパンチでふたつ三つの穴を穿ち、小さなプーッコで余分な革をカットする。




下拵えしておいたブレードにフロントプレートとトコ革のワッシャーを刺していく。エポキシの接着剤を塗りながらの作業だ。パイプを使って叩き込む作業があるため、ブレードは木片に挟んである。




治具にセットしてプレスし、一昼夜放置する。




カシメに半日近くを要してしまった。途中気晴らしにハンドルの余計な肉を殺いだりしている。ボルトが写っているのはカシメ専用の治具で、SPF材をボルトで締め上げてブレードを固定する仕組み。そのうちご紹介しよう。





ごく粗い削りの最中。




好みのフォルムを探しながら気長に削っていく。この段階でのハンドルの質感はヌバックそのものである。




ちょっとやらかしてしまった。手の手術を受けて不自由な状態でブレードを研いだら、ベベル面を不必要に削ってしまった。まあ自分用、作業プーッコと割り切ろう。この写真の状態は、ハンドルをベルトサンダーの400番で削った後、クラフト社の『クラフト染料 黒』で染め、『レザーコート マット』で色止め、さらに『トコフィニッシュ』を塗り込んでウイスキーの空ボトルで擦った状態である。





さらに空ボトルですりすりしてみた。シースには流木を使ってみようと思う。流木をホールドするレザーには真っ黒なヌメ革を使い、シックでワイルドな風貌を醸し出せるだろうか。

ハンドルマテリアルとしては床革も悪くない。太さや形状を変えて、何本か作ってみよう。





このキャットは、捕獲して飼育しようと企んでいるのだがいつまでも警戒心をほどいてくれないでいる。どなたか、彼女を家族にするための良い知恵を授けてくださらぬだろうか。





2019年10月7日月曜日

壊れた手を直す


手術室の左側の壁にデジタル表示の計時パネルが023411を刻んだ。予定より長く、わたしの想像より短く、三回目の手術が終わった。わたしが密かに「ゴッドハンド」と呼んでいるドクターは相変わらずクールな口調で、手術室に居る全員に向けて、ミッションの完了を宣言した。つらく不安な時間から解放されることを知ったわたしの目には、自然に涙があふれた。



半年近く前に、不注意から指を痛めた。指の付け根の骨が粉砕と表現されるまでに壊れてしまい、わたしは指を一本諦めたこころもちで病院に連れて行かれた。しかしゴッドハンド先生は、ほんらいならば創造主だけがなし得る能力を以てこの指を残してくれた。そして数ヶ月、プレート固定によって骨の接合を待ち、同時にリハビリを行っていたのだ。

とはいえ指を動かす腱が完全に癒着してしまい、箸が使えぬ身となった。爾来ずっと手づかみかフォークでの食事である。困ったことは何もない。いや、ある。蕎麦を手繰ることが出来ない。これは困った。秋風が立つようになった或る日、レントゲンの画像で「骨が完成した」と診断された。新蕎麦の季節はもうすぐである。このタイミングを選んでプレートを外し、リハビリを進めておかなければならない。






第二関節からまったく動かなくなってしまった薬指。腱が切れていたら諦めるしかない。生涯、蕎麦とは無縁に生きてゆかなければならない。

不思議なことがあった。冒頭に掲げた写真のプレートと六本のボルト、これらがわたしの指に埋め込まれている間、アイフォーン起動時の指紋認証ができなかったのだ。理由は解らない。近くの指に金属があることで、電気的な何かが変わるのだろうか。





今年は夏の名残がいつまでも続く。しかし秋は少しずつ深みを増してきている。わたしは自分で入院の支度を済ませ、バスに乗って病院へ向かった。手続き、検査を経て手術室の天井、いや正確には天井はとっくに見飽きていて、ずっとデジタル表示の数字を見ていた。麻酔が効いて痛みはない。しかし骨からボルトを抜き取る工具の回転音や、ゴットハンド先生のシリアスな呟きが耳に入って来る。不安は募るばかりだ。時の移ろいはあまりにも遅くて、待ち焦がれているその瞬間はいつまでも遠い未来にあった。



023411の時が訪れた。わたしは、壊れた手を直してもらったのだ。直す、と書いた。それは、ゴットハンド先生が、チタニウム合金のプレートとメスと工具と麻酔の装置と、ほかに様々な道具を用いて物理的に直してくれたのだ。タイミングベルトが切れたクルマを整備工場に持ち込んで修理してもらうように、わたしの手は修理してもらえたのだ。





手術の翌朝、病棟の窓から眺めると、わたしが棲むまちの近くの丘に虹の尻尾があった。吉兆だ。直してもらった手を、これからはわたしが治していくのだ。



ゴッドハンド先生、それから医療スタッフのみなさま、こころより御礼申し上げます。









2019年9月22日日曜日

紫壇と黒檀のコンビハンドル・プーッコ


北欧ナイフ、プーッコのハンドルメイキングはまだ続く。

こんな愉しい遊びのきっかけを与えてくれたブッシュクラフトの師匠への献納品をつくろう。魂を込めた一本になるだろう。





ブレードはラウリの炭素鋼。ハンドルは紫壇と黒檀のコンビとした。スペーサにはレザーワッシャを使用する。





細部をおろそかにはできない。タング末端のカシメには丁寧な仕事をしたかったのだ。実はこの工程にはいくつものコツがある。ほとんどのことをフィンランドのOsmoさんの動画で教わったことなのだが、ハンドルメイキングの最初の工程とつながってくる。

デザインとマテリアルが決まった後、タング末端の焼鈍処理を行う必要があるのだ。「焼きなまし」である。




これは別なプーッコでの写真だが、タング末端をトーチで加熱している。ホウロウのポットには余熱してある砂が入っている。またブレードには熱を与えたくないので、濡らしたウエスで熱を取っている。





真っ赤に焼けたところで砂に突っ込み、放置することで焼鈍が行われる。



 

タングにヤスリを当てて処理が行われていることを確認。

さらに重要なポイントがある。エンドのキャップに開ける穴のサイズと、タング末端の形状を合わせておくことだ。ハンドルのパーツを組み立てて接着する際に、エンドのキャップをパイプ様の物で叩き込んでやるのだ。これらの工程を済ませておかないと、カシメが適切に行われずに強度不足のハンドルという結果を招く。これを理解するまでに三ヶ月以上を要した。






接着を終えたコンビハンドルのプーッコ。





ハンドル形成中の様子である。





だいぶ艶が出てきた。しかし道のりはまだ半ばである。





まだまだ磨く。上の一本については後日に書こう。





ハンドルが完成。

ここから先は、ブレードの研ぎ、シース作成、オイリングを経てようやくの出来上がり。師匠の仕事の隙間を狙って献納である。





わたしのプーッコと記念撮影。写ってるブランクは次なる一本に採用したドロップポイントの80ミリ。











うん。美しい仕上がりである。師匠も喜んでくださるだろう。








2019年8月25日日曜日

常念 病み上がりの青空に


不覚を取って、真夏を十日ほど病室で過ごした。前半は絶食であった。退院時、点滴の針が外された腕にも、見おろす両の脚にも、筋肉の盛り上がりはなかった。振り返ってみれば、春先のぎっくり腰、続く事故による手術とリハビリの日々、そしてこの入院で体力はすっかり衰えてしまい食欲もない。

これを見かねて友人のスズキサトルくんがわたしを山に連れ出してくれた。




夏が終わりに近づいていた。秋の気配が忍び寄る未明の一ノ沢補導所を後にする。大滝ベンチで暁の空を見上げれば上弦の月が高かった。iPhoneのカメラでは満月のように写っている。今日は、晴れだ。




笠原付近で稜線の朝を眺める。




横通方向からの本流を仰ぎ、小尾根に乗る。果たして乗越まで這い上がれるだろうか。






一歩一歩、ゾンビのようにのろのろと脚を前に出して、ようやくここまで来た。サトルくんは気を遣って、ここで珈琲を飲んで帰っても良いと言ってくれる。しかしそれでは去年の春と同じことになってしまう。
 


 
あそこまで行けるだろうか。あと400mあるのだ。垂直で考えると。




まずは湯を沸かし珈琲を淹れてアロマを愉しむ。なにこれ稜線の珈琲は美味すぎる。




たっぷり休んでから、這い上がってきた。てっぺんに立つのは東北から来たソロの青年。

槍穂はガスに巻かれていた。少しの間、涸沢を覗き込んだり写真を撮り合ったりして過ごす。和やかな山頂のひととき。




下りがまた辛い。腸脛靭帯がちゃんとスタビライザーの仕事をしてくれないのだ。加えて着地の衝撃で膝回りの他の筋肉も腱も笑いはじめて、よろよろと転がるように乗越まで降りてきた。




駄目だねこりゃ。身体を作り直さねば。そう言って休んでいると、わたしを励ますかのようにお槍さまが穂先を見せてくれた。余談だが「お槍さま」とは2006年の春からわたしが使い始めた言葉であるが、この日おおくのハイカー達が「おお、お槍さま!」と口にしていた。いつの間にか....





さて稜線に別れを告げよう。正直、ラマかスーパーピューマにでも迎えに来てほしいと感じるほど脚が重い。ぐぬぬと呻きながら樹林帯を降る。ぼやきばかりでサトルくんには申し訳なかった。






胸付八丁から安曇野を眺める。入院中に体重が10キロ近く落ちていたから、身体は軽かったのだ。なのに脚は重い。山に来たのは久しぶりである。足首から腰回りにかけてのぜんぶの筋肉たちが怒って騒いでいる。




烏帽子沢にて。プーッコは、わたしにとって山の道具なのだ。





山ノ神が遠かった。ポケットの小銭を全部、一枚も残さずに賽銭箱に放り込む。山の神さまありがとうございます。ここまで来れば舗装路は近い。




補導所を過ぎて、ようやく凹凸から解放された。駐車場まで我慢すれば助手席が待っている。





山の神さまへの感謝もあって、帰路の湯浴は「湯多里 山の神」。アルカリの湯で両脚の靭帯と筋肉をほぐしてやる。それでも、この夜からは筋肉痛で呻きが絶えなかった。





用事があるというサトルくんが近所で降ろしてくれた場所が、馴染みの店の前だった。暖簾を潜ってカウンターの椅子を引く。大将に「今日あるネタを、全部」と頼んだのだが、「何日も絶食してたような胃袋でそんなに喰えるか‼」と一喝されて、ささやかな独り打ち上げを楽しんだ。何杯か飲むと、さすがに眠くなってきた。ご馳走さま、帰ります。ザックを背負い、坂道を上って家に着くと布団へ直行。たぶん十秒後には鼾が出ていたことだろう。





翌朝になってハンワグの山靴を洗う。むかし山会の先輩から「山靴を洗って干すまでが山行だ」としつけられた筈である。まあ病み上がりということで、許していただこうではないか。