2020年7月19日日曜日

旅へ。

むかしバブルが沸騰していた時代。二十歳そこそこだったわたしは、ある友人と上野や浅草で呑んだくれていた。彼が上野で乗り換える路線の町に住んでいたためだろう。暮れになると、映画館に足を運んで『寅さん』のシリーズを何度か観た記憶がある。観た帰り、ガード下のもつ焼き屋でコップ酒を呷りながら仏文科に居たその友人はこんなことを云った。寅さんには家がある、柴又がある。だから好きなように旅に出て、また帰って来ることが出来る....。そう、旅先での寅さんを描くだけでは、あのシリーズは成立しない。旅先と柴又の両方でのドラマがあってこそ、はじめて旅する寅さんが成り立つのだ。家が在るから旅になる。さくらにとっては兄が帰ってきている時間が非日常で、寅さんにとっても同じだ。この波長の整合が、兄妹の長期にわたるものがたりの下支えをしている。そういえば彼は卒論に近代仏文学におけるコロニアリズムだかエキゾティズムだかのことを書いていた。



寅さんは、土手を歩いて帰って来る。あのトランクを提げて。あるいは、駅の改札の向こうへ、あの背中を見せて去って行く。ここで、土手も駅も、境界となる場所であることに気付く。寅さんに限らず、幾多の物語や歌の文句や映画芝居で描かれる場面とは、「境界」となる場所だ。検問ゲートのある国境だったり、夜霧に包まれた波止場だったり、砲弾飛び交う戦線だったり。エアポート、峠、海峡、橋、門、つまりは日常と非日常、ある世界と別な世界を隔てる境界に、その物語が描写される。二時間ドラマでひとを殺めた容疑者が、ラスト直前、刑事たちに動機や真実を語るのは怒濤の波しぶきが砕け散る荒磯であって、穏やかに時が流れる茶の間ではない。重要な場面では、この世と彼の世を分つ、境界である必要があるのだ。重大な意思決定、出会い、別れ、死、こうした出来事は境界を好む。これは、ある世界から別な世界へと軸足を映す瞬間の葛藤こそが、描写に値する人間の物語として普遍化されるからなのかもしれない。言い換えれば境界の身体化である。浅草で寅さんを観てから四半世紀を越える時が流れて、ぼんやりとこんなことを考えていた。



家族で出かけて旅情を愉しんだり、バックパックを背負ってアルプスの稜線を何日か歩いたり、そんな小さな旅は今でもあるし、これからもあるだろう。けれど、むかし自転車で何週間も海岸べりを走ったり、数ヶ月も日本海に沈む夕日を眺めて歩いたりといった経験は、もう起こり得ないだろう。夏の伊豆に海水浴に出かけてジャズ喫茶で働き始めそのまま半年を暮らす、なんてもうあり得ない。日常がそのまま変容して非日常の奔流に飲み込まれる、たとえばジム・ジャームッシュ監督の描くいくつかの映画のような展開は、ありふれた普通の人生の後半には起こりにくいものだ。考え事がそんなことに転じ始めたら、無性に遠くへ出かけたくなってきた。とはいえそれも叶わぬ身、わたしは或る日終日、画面の前で『ストリートビュー』を開いては、過去に記憶のある場所を彷徨ってみた。



少年時代を過ごしたいくつかのまちの風景。大学時代のキャンパスやアパートの在った場所。仕事をするようになって過ごした街区。かつての恋人が暮らしていた通り。出張や旅行で訪ねた都市。むろん、彷徨った日本海の海岸線、旧中山道の風景、伊豆のジャズ喫茶、エトセトラ。大学の門や講堂だけは大きな変化はなかったが、ほかはまるっきり風景が変わってしまったか、あるいはまったく面影を見いだせない見知らぬ場所だった。時が、わたしの知っている風景を、みな塗り替えてしまったのだ。わたしが知っている風景、その記憶が間違っているのではないかと思えるほどに、過去と現在の間に横たわる隔たりは大きかった。わたしは誰なのだろう。どこのまちで育ったのだろう。見慣れたはずの東京牛込のあの坂道の風景はどこへ行ったのだろう。



昼間から飲んでいた或る日、わたしはいまこの瞬間、時の流れを旅し続けていることに思い至った。信州まつもとの街はずれに移り住んで新たなふるさとを得て、わたしの旅は終わったはずだった。出かけることがあってもそれは「旅行」であって旅ではない。そう思い込んでいたいまのわたしは、時の流れを漂白している流浪の民のひとりでしかないことに、気付かされたのだ。ひとは、地点から場所へと移動するだけが旅ではないのかもしれない。生きて在る以上、旅をし続けているのだろうか。いや、たとえ死んでも誰かからの追憶が在れば旅を続けなければならない。いったい終わりのある旅なのだろうか。酒毒が脳に回って来ると、家の台所で酒瓶を抱いているのか、見知らぬ町の酒場で酒を舐めているのか、判別できなくなってくる。いや、もしかしたらこれは現実ではなく、誰かの夢の中で夢を見ているのかもしれない。



むかしの映画で、その刑事が背後から撃たれたのは日付が変わる真夜中だった。青春ストーリーで主人公たちが太陽に馬鹿野郎と叫ぶのは、昼から夜へと移り変わる時の狭間だ。黄昏時や彼は誰れ時は魔に会う時とされ、洋の東西を問わず、夏至の日や冬至には祭りが行われ、年が改まるとわたしたちは着飾って寺社へ詣る。時の刻みの、目盛りから目盛りへと移る瞬間には何かが起きる。ふと手を止めて背後の夏空に湧いた大きな雲を眺めるのは、もう初夏を過ぎたと実感する午後で、日だまりに咲く花を見つけて喜ぶのは冬が終わった瞬間に立ち会ったからだ。永遠に刻み続ける時のひとつの欠片を大事に仕舞っておこうと思った瞬間に、その時は消え去って次の時が来ている。わたしはどんな時の刻み目に立とうと悪あがきしているのだろう。



わたしが初めてblogを書いたのは、まだ二十世紀の終わりのころで、シックスアパート社のMovableTypeというサービスを知った時だった。まだスマートフォンは存在せず、インターネット接続には「モデム」という機器を使っていた。当時は仕事の一環でもあり、ある特定の分野で専門的なことを調べたり書いたり。苦痛なルーティンだった「書くこと」が、名前を変え、立場を替え、こんなに続くとは考えたこともなかった。いまでも書きたいテーマもたくさんあるし、書くことは極めて個人的な営み、という立場であちらこちらに書き散らしてきた日々がなつかしい。さようなら。何かを書き続けてきたわたし。さようなら、みなさん。ありがとう。











2020年5月22日金曜日

芹と鶏肉とわたし


拙宅から歩いて行ける森の奥に、小さな泉がある。泉の周りは芹(せり)が自生していて、この季節には瑞々しい新芽を摘むことが出来る。山主も「かまわねぇ」と許してくれているので、春から初夏にかけて何度もセリ摘みに出かける。








ちょうどよいサイズのを、その日食べる分だけいただいて来る。




セリがあるところには当然毒ゼリも生えている。誤食するとまあ、何と云うかおふくろたちがすんでいるところに行けるのだろう。




鶏もも肉と豆腐と茸と、澄んだだし汁で食べるのがわたしの好むところである。





むかし仙台で教わった食べ方に根を食べる、というのがあった。よく洗って泥を落とし、鍋に炊き込んでしまうとこれが美味い。独特の甘みとほろ苦さが渾然となって口一杯に広がる不思議な味わいである。





前夜の残ったところにまた豆腐を足したりしながら、最後は餅を煮たり雑炊にする。芹の香りが移った煮汁が、喩えようも無く好ましい。そんなことを友人に話したら、お前の喰い道楽は入り口にも立っていない、と莫迦にされた。友人曰く、鶏と芹で出汁が出ているならば、そこへ濃いめの醤油を加え、蕎麦を投じるのが至高であるという。なるほど蕎麦の香りのみぎひだりで芹と鶏が奏で合う交響楽が、脳内に響いた。その友人は蕎麦打ちの名人である。「隠し味に大根おろしを少し」とまで教えてくれた。美味いものを探して行くと、どこまでも奥行きの深い世界を彷徨うことになるのだろう。うむ。芹と鶏肉と、蕎麦か。








2020年5月18日月曜日

possibles pouch


ある欧米のブッシュクラフターが、革で作った小さな巾着のようなものを動画で紹介していた。コイン入れにされていたが、探してみると類似の巾着がどんどん出て来る。ほほう、作り方にも何通りかの工夫があるらしい。一般的にはpossibles pouchと呼ばれているようだ。そういえば近所に住んでいるブッシュクラフトの神さまも、自ら鞣した革の小袋を使っていたっけ。




巾着袋の位置づけもそれぞれで、EDCだったりファーストエイド・キットだったり、火起こし用の火打石入れだったり、流儀もありそうだ。手慰みにちょうど良さそうなので、三つほど拵えてみた。





いちばん小さいpossibles pouch。玉子がふたつ入るぐらい。カトラリか火起こしの道具入れにちょうど良さそうだ。






このような使用イメージだろうか。





筒状に縫い合わせたレザーに底をつけて口を巻いて使うタイプのpossibles pouch。チタンマグの600がすっぽり入るが、これでは口を巻けない。450マグで極小アルストを組み込んだ珈琲セットに使えそうだ。








プーッコと一緒に写真に納まっている。ふむ、こうして眺めるとこのプーッコも悪くない。





これは「縫う」作業が一切無い造りのpossibles pouch。丸いレザーに紐用の穴をあけ、革ひもを通しただけ。







以前ご紹介した「花梨ハンドルのプーッコ」とよく似ているが、ハンドル形状が異なるプーッコを一緒に。




面白いものだ。たかが小物入れ。されど、である。


森の片隅の赤松の切り株の上で、小物たちを広げてみる。筒状のpossibles pouchには、写っている大きな方のプーッコ以外、収まってしまう。




さて。冒頭でご紹介したブッシュクラフトの神さまの革袋である。ロードキルでお星さまになってしまったタヌキ氏の毛皮を手ずから鞣して製作。わたしのとは次元が違う!






 

2020年5月1日金曜日

ただのどかなだけの風景


日々を遊び暮らしているようで、手応えの無い時が移ろう、はずなのに、わたしの時は止まってしまったかのようだ。裏の丘を越えて湖へ足を運んだ。湖面のさざ波が空の青さを映すのを拒んでいる。





奇妙な形の雲がいくつも浮かんでいた。夕方、小川のほとりや果樹園の傍らを歩く、また走る人が増えたようだ。









桃園の花が開いている。うすくれないのグラデーションは、夕闇に沈みかけている果樹園にともった灯りのようだった。









これはラ・フランスの花だ。ほんのひとときだけ、甘い香りが漂いながれる。





裏手の丘に、静かに風が流れる。






農家の裏手の菜の花畑。家の周りの野に出てぼんやりと過ごす時間が増えた。





丘から見下ろす田園。その先にひろがるまつもとの町並み。





奈良井川を見下ろす。




この春、上高地へと向かうバスは止められている。人影のない河童橋の向こう、残雪眩しい穂高の吊尾根がまぶたに浮かぶ。仕事場からの帰宅中、常念のまうしろに夕日が落ちていった。









2020年4月12日日曜日

観音堂の桜に会う


花の丘に、季節が巡ってきた。





2020年4月4日。観音堂の桜は、まだ五分咲といったところだろうか。この日、まだ昼前であったが、わたしは樹の下の石段に腰を下ろし、ウイスキーのポケット瓶を舐めて過ごした。






4月7日。夕暮れの観音堂を訪うた。うすれゆく空の光は花を輝かせるほどのちからはないが、却って存在感を際立たせている樹影に、わたしはたじろいでしまった。






鳥肌が立つほどの、凄み。



また幾日かの時がうつる。わたしはまた観音堂の立つ花の丘に足を向けた。



大変なことになってしまっている。丘の裾に広がる果樹園、民家の庭には花々が弾けるような彩りを広げていた。散りゆく梅、咲き始めの桃、杏、象牙色の林檎の花、そんな花の奔流の源に聳えるかのように、あの桜がおわした。





観音堂は、花に埋もれてしまっている。ご本尊さまはさぞかし心地よくお過ごしだろう。塩倉山海福寺。いまでは無住ながら、信濃百番札所の二十四番、松本三十三番札所の二十六番に数えられる古刹。案内板によると、創建は十二世紀はじめ、ご本尊は『聖観世音菩薩立像』。





お堂の裏手から眺める。





それにしても、見事な枝垂桜である。ふたつ並ぶ石造物は念仏供養塔と道祖神である。







林檎の花にはさまざまな色合いがある。観音堂の前に植えられたこの樹は、淡い黄色を帯びた可憐な花だった。遠景は左から袴越山、美ヶ原王ケ鼻、三峰山、鉢伏山。中景には塩倉池。





ここ数年の様子をご紹介しよう。



2014年。わたしが散歩の途中でこの桜のことを知った年。早朝、扉峠の方から昇ってきた春の朝日が、桜を染め上げる。この樹に近づくと、わたしはあんぐりと口を開けたままなにか云おうと呻いたり喘いだりしながら、見上げる。しばらくの間たましいを吸い取られるにまかせ、ようやく気がついたように写真を撮ったり、樹の後ろに回ったりする。そしてあわてて観音様に挨拶を申し上げ、またぼんやりしてしまう。

どうやらこの樹は、ちからを与えてくれるというより、わたしを駄目にしてしまうようだ。





2015年。やはりわたしは駄目になった。





2016年。塩倉池というため池の堤から桜を眺める。凄いものである。






2017年。この年もわたしは立ち尽くした。





2018年。この樹の下で、朝からわたしはボルドーを一本空けた。




そして昨年の春。





この集落は、岡田塩倉と呼ばれている。遠く、上越の海岸、糸魚川から松本平へ塩や海産物を運んだ『塩の道』の経由地で、塩倉山海福寺の名前がその歴史を物語っているようだ。いまでは林檎の果樹と田畑が広がるのどかな風景である。そののどかさの彼方に、おそらく、善光寺街道が拓かれるよりも古く、人々や物資が往来したと想像される。近くには縄文時代の遺跡も多く存在し、古墳がいくつも残され、古代には登り窯が多数築かれた。つまり、当地ではもっとも古くから人々の活動の痕跡が認められる場所のひとつなのだ。

観音堂は、いつの日かこの丘に建てられ、街道を行く牛馬の列を見送ったことだろう。桜の樹齢はいかほどか判らぬが、堂の前には向かって右手に切り株が残る。かつて、左右、対の枝垂桜が満開の花を滝のように咲きこぼしている様子をまぶたの裏に描いて、わたしは今年の花の丘を後にした。








2020年3月29日日曜日

ビーナスに会う

県立歴史館へ


山道を降りて行くと、梢越しに長野県立歴史館の建家が見え隠れしている。こころなしか急ぎ足になってきたわたしは、転びそうになりながら「あわてるな!」と自らに言い聞かせる。鼓動が激しいのは運動のせいじゃないことは解っていた。手のひらからは異常なまでの発汗。喉が渇く。要するにわたしはパニック直前の状態だった。ビーナスに会える。もうすぐ会える。歴史館の裏手の田んぼに出た。刈り入れの終わった田んぼを突っ切ると、歴史館の敷地に入る。駐車場を駈けるように抜けて右手に回り込むと、エントランスがあった。まるで信じられない。嘘だ。夢だ。現実ではないような浮遊感に包まれながら、写真を一枚だけ、撮った。








受付では不審者と思われたかもしれない。もの凄い形相をしていたかもしれない。順路、と書かれた案内板も、ほかの入館者もが邪魔臭く思えた。早く会いたい。この目で見たい。もの凄く長い時間がかかったように思えたけれど、数分後、わたしは展示室で彼女と対面していた。



冷静を装って、ポケットに両手を突っ込んで、あまり関心がないような、誰かに連れてこられて仕方なく佇んでいるような態度を装っていた。薄暗い展示室の片隅でサングラスをかけたまま、表情を隠していた。ふん、たかがおおむかしの土人形だろ。しかし、涙をにじませた眼は充血し、呼吸は荒く、肩で息をしていた。展示ケースに近づくまいと四肢をこわばらせていた。間近に見てしまえばガラスケースに顔を貼付けてしまうだろう。





ビーナスとの対面


彼女は、『縄文のビーナス』は、高貴で、美しく、可憐で、純粋で、混沌だった。わたしは細部の、たとえば彼女を構成する粘土だった珪酸質の粒子のひと粒までを見たかった。


激しい羞恥心を覚えていた。彼女は衣類をまとっておらず、ふくよかな身体をさらけ出していた。わたしは困惑しながら、感動と衝撃に揺さぶられて、究極の官能に包まれていた。彼女は美しすぎて、眩しいばかりだった。四つの灯りが彼女を照らしていた。正確にはもうひとつ天井にも。凄い。身体の輪郭線が輝いている。塗り込められた雲母の破片が、照明を跳ね返す。そのおぼろで鮮やかな、喩え様のないフォルムを目の当たりにしている。信じられない。彼女が目の前に居る。


もう、わたしは、ぼろぼろだった。


何かを目にして、こんなに打ちのめされたのは、初めての体験だった。








旅の朝


その朝、わたしは松本の自宅を出てバスに乗り、松本駅からは鉄路の響きを楽しみながらの小さな旅となった。


快晴。北アルプスは常念北面と大天井に雪。安曇野からトンネルをいくつも抜けて善光寺平に入り、篠ノ井でしなの鉄道に乗り換える。






初めて乗車するしなの鉄道。ふた駅先の屋代までの区間をたのしむ。





台風19号で大暴れした千曲川の鉄橋を渡る。河川敷は茶色の泥と砂で覆い尽くされていたが、このあたりでは洪水被害を免れたようだ。





屋代駅からは公式の案内にあるルートを歩かず、山越えの小径を選んだ。地形図によると、神社の境内、墓地と抜けていくと長野県立歴史館まで通じていることになっている。この神社の境内へすすみ、その奥の水道施設の向こうに歴史館への道があるはずだ。





こんな道をしばらく拾う。いくつかのターンを過ぎて、歴史館の屋根が見えた。






このとき、わたしは前述したような、パニック手前の状態だった。降りた所がゲートで塞がれていた。使われていない道のようだ。これが更なる混乱をもたらした。




『縄文のビーナス』との対話

彼女に逢ったのは、この時が初めてではなかった。数年前、ある博物館で会って以来、何度かの邂逅があった。しかしそれは、すべてコピー品であった。レプリカントではない。


コピー品と書いた。


その時は何も理由が解らなかったのだが、彼女、茅野市の棚畑遺跡から掘り出されて国の重要文化財を経、現在は『土偶』として国宝指定を受けている『縄文のビーナス』にはコピー品がいくつも存在する。コピー品という書き方以外に言葉が浮かばないのだが、大昔、縄文のビーナスが棚畑のムラで祀られていた時代に、彼女に出会った人々が「真似て作った」としか考えられない、同じ顔、同じ表情の土偶や土器の装飾が複数存在するのだ。

岡谷 顔面把手土器、で検索すると表示される有名な土器がある。土器の縁に、彼女が居る。ほかにも、八ヶ岳を中心とする中央高地で見つかったいくつかの土偶が、彼女と同じ顔立ちをしている。小動物を思わせるような、「ひょ」と発音しているような口元。どんぐり型のいたずらっぽい眼。何度か訪れた近隣の博物館の展示や、縄文時代を扱ったムック本などで出会う表情、顔立ちなのだ。


あなたは、なにものなのか?


わたしは何年も前から彼女に問うている。あなたを真似た土偶や土器の装飾がたくさんある。真似られるほどに崇められたのであろうか。同じ顔を複製する必要があるほど深く祈られたのだろうか。他の土偶たちとは異なる特別な埋納がなされていたと知られている。あなたは一体なにものなのか。


塩尻の平出博物館において、縄文時代の顔の表現をテーマとした展示が行われたのは三年ほど前だっただろうか。わたしはこの展示の空間で、彼女からのメッセージを受け取った。


 いきろ


それは限りなくシンプルなメッセージだった。受け取った瞬間は、シンプル過ぎて内容が判らず、帰宅してから解読できた、そんなメッセージだった。いきろ、というのはわたしを励ましているのではない。親が子を想う感情、次の世代に託すいのちのリレーのことを指している。はるか数千年前の、この信州の高地に暮らした祖先たちが(たぶん今よりもすこし)困難な時代を生き延びながら発した、祈りと願いなのだ。
















いきろ。

三年ほど前に受け取った、遠い祖先たちの願いをあらためて受け止めながら、わたしは長野県立歴史館の展示室を後にした。展示は、国宝に指定されている五体の土偶を一堂に集めて鑑賞することが出来る、短期間ながら豪華極まりない企画であった。もちろんわたしは他の土偶の前にも立った。立って眺めて考えて、これを何回も繰り返していた。展示室に三時間ほど過ごしたぐらいだ。けれどここでは他の土偶との対面に付いては書かないでおこう。





いきる




屋代の街を少し歩いた。激しい空腹が突き上げていた。胃袋がよじれるぐらいに食べ物を欲していた。実は、ポケットにはウイスキーの小瓶があった。素面で『縄文のビーナス』に会う自信がなかったため、入館前に「きゅっ」と飲ろうと忍ばせてきたのだ。ところが歴史館の建物が見えた時には錯乱状態で、ポケットのウイスキーを取り出す余裕すらなかったのだ。







どのタイミングで小瓶のキャップを明けようか、考えていた。しかし午後早い路上には親子連れの姿があったりで遠慮がある。アメリカ映画で茶色い紙袋に隠した瓶を呷る場面が思い出された。あれにはこんな意味があったのだなと気付き、紙袋の無い自分を呪った。わたしは疲れていた。経験は無いが、フルマラソンを走り切ったぐらいに疲れ切っていた。何かを食べる必要があった。それ以上にウイスキーを胃袋に垂らしてやりたかった。

ラーメン屋でも良い、酒を飲ませる店を探した。ところがランチタイムを過ぎてどこもやっていない。仕方なくわたしは屋代駅で切符を買い求め、ふたつ先の篠ノ井まで移動することに決めた。ホームには人影もまばらだった。誰かが駅舎のピアノを弾いていた。すばらしい演奏だった。ベンチに座ったわたしは、他人の視線をはばかることなく、小瓶を取り出し、満面の笑みを浮かべていただろう、ぱちぷちっという音まで楽しみながらキャップを明け、続けて小瓶を口元に運び、口腔に広がる『角』の香りを愉しんだ。ジャズの名曲が次々と流れる。わたしは、ウイスキーとジャズと堪能しながら、ビーナスの姿を思い出していた。






篠ノ井駅で降りたわたしは、駅前に酒場を見つけた。まったくすぐれて正しい酒場、という概念があって、それは遅くとも昼には店を開ける酒場を指す。篠ノ井駅東口の『江戸屋』は完全に正しい酒場で、この暖簾をくぐるに躊躇する理由を探すことに困難を覚えた。







正しい酒場には、正しいモツ煮込みがある。





若い頃に、中原中也の詩集を読んでいた。彼がいつも突きつけて来るのは、悔恨だ。過ぎ去ったあの時に、何故そうしなかったのか、あるいは成してしまったのかを延々と問う。問いは思考に向かうのではなく存在に、たましいに、肉体に突き刺さって来る。刺さるだけでなく、繰り返しえぐり取っておのれを痛めつける。わたしはこの日、「薬局にない胃腸薬」をなぜ試みなかったのか、いまでも悔やんで悔やみきれない。よごれっちまったかなしみは、たとえばきつねにのかわごろも....






いきろ。いきろ。遠い祖先からのメッセージがリフレインしている。ビーナスよ、あなたが願いを聞き届けてきた年月はいかほどなのか。あなたに祈りを捧げた人はどれほどなのか。










ハイボールを何杯飲んだか。千鳥足で松本行きの電車に乗る。田毎の月で知られる姨捨の駅で、先ほどまで過ごした屋代と篠ノ井のまちを眺める。ポケットの小瓶が残り少なくなってきた。






松本駅に降り立ったわたしは、駅前にいくらでもある酒場ではなく、中町という蔵造りの街並みの『中西屋本店』に急いだ。ここは正午から夕方六時まで酒を飲ませる正しい「酒屋」で、居酒屋ではない。顔なじみたちと莫迦話をしながら時を過ごし、さらに何軒かハシゴして帰る。




最終のバスで帰ろうと、人気の無いバス停のベンチに座った。ひんやりとした感触に戸惑いながら、背中を預けた。ふいに、おかあさん、という語彙が出てきてしまって、困惑した。わたしはすでに母を亡くしている。けれどこの時浮かんだのは、実の母ではなく縄文のビーナスだった。誰も居ないバス停でわたしは少しだけ泣いた。