2019年12月31日火曜日

ブッシュ・クラフトの日


冬の一日、お頭から招集が掛かると、わたしたちは森へ出かける。

出かける場所は決まっていて、とある森の一角で赤松の小枝を集めるのだ。森の傍らには清流が流れている。花崗岩質の白い砂が美しい流れだ。ここで集められた赤松の小枝は、わたしたちが住むまちの人々に配られ、その玄関を飾る。古い年は過ぎ去り、新しい年が訪れる。松が取れる、と書くように玄関を飾った赤松の小枝が外され、町内の子どもたちがこれを再び集める。集めて広場へ運び、小正月の道祖神の祭礼が催される。当地ではこの祭礼、行事を『三九朗』と呼ぶが、どんと焼き、左義長と書けば解りやすいかもしれない。

三九朗のことは、来年の行事が行われた後でまた書こう。





例年、わたしは剣鉈と鋸を携えて森に入った。今年、手製のプーッコを加えてみる。先ごろに書いた花梨ハンドルの一本だ。写っている革ベルトには少し思い出がある。もう三十年もむかし、日本海べりを歩いて旅していた。春頃から歩き始め、真夏を過ぎた日のことだった。能登の静かな海岸で、この革ベルトはある事情からわたしの所有物となった。以後、こうして年に数回、腰に巻かれる。わたしは普段、finetrack社の『ストームゴージュ・パンツ』というスボンを履いている。秋から冬は同じく『ストームゴージュ・アルパインパンツ』に変わる。だからベルトを必要としていない。






鋸は、いつもケツのポケットに刺していた。せっかく下手くそな革細工を覚えたのだから、と前夜に床革で鋸のケースを作った。レザークラフト、と書けるような立派な手技ではない。本当に下手くそに革を切り穴をあけ糸を通すのだ。

登山用のシュリンゲ、これには使い道がある。沢登りをなさる方はご存知だろうが、伐り集めた松の枝を運ぶのに重宝するのだ。






花梨ハンドルのプーッコの鞘を見てほしい。とてもクラフトと呼べる代物じゃない。けれど、このプーッコにも鞘にも、とてつもなく深い愛着がわいている。眠るときは枕元に置いて、夜中に目覚めた時にはそっと手を伸ばして触れてみるほどだ。


自分で作った道具を携えて、森に入る。森の中の作業は単純で、そこに冒険の要素は無い。ところが、枝を切る、縄を切り揃える、竹を割るといった単純な作業に歓びを覚える。鋸をケースから出す、戻す、そんなひとつひとつの動作に道具たちとの対話が生まれる。何と愉しいことなんだろう。もうあと半日で、この一年が暮れる。やがて次の招集が掛かり、小正月の朝、わたしたちは竹林に出向く。すっくと伸びた孟宗竹を数十本切り、大きな三九朗を作るためだ。その日のわたしの腰には、この革ベルトと剣鉈と鋸がぶら下がっている。そして花梨ハンドルのプーッコも。おっと、いまチンチャン(手違紫檀)ハンドルの一本を手がけているから、プーッコは替わるかもしれない。











2019年12月22日日曜日

あるご先祖さまのこと

ずいぶんむかしのご先祖さまのことを書く。



場所はたぶんアフリカで、あの大陸の何処かだと思う。そのころ、誰もが石の塊や木の棒、あるいは動物の骨を道具として使うことを知っていて、生き延びるためにそうした道具の工夫を続けていたのだ。そうしたなかで小さな奇跡が起きた。新大陸の発見とか、天王星の発見とか、ふうっと霞んでしまうぐらいの大発見だ。あるひとが、割れた石くれの鋭利なエッジが、肉や毛皮を切り裂くのに適していることを発見したのだ。エッジは、ほ乳動物などの獲物を仕留めて肉を切り分ける場面で使われたことだろう。かぶりつく、引きちぎる以外の効率的な方法を得たのだ。これにより、手に入れた食糧を咀嚼する、つまりエネルギーに変える時間が短縮され、また他人やほかの肉食獣に横取りされるリスクが軽減され、彼、あるいは彼女は生存していく上でやや優位な状態に置かれることになった。わたしは、この鋭利なエッジを使うことを発見したご先祖さまに、全身全霊でお礼を云いたい。ありがとうグッジョブ。



さらにある時ある場所で、もうひとつの奇跡が起きた。較べれば火薬、羅針盤、活版印刷の発明なんてゴミカスだ。ある天才的な知性を備えたご先祖さまが、石を意図的に割って鋭利なエッジを作り出すという発明を成し遂げた。このご先祖さまは、世界で初めてナイフを作ったのだ。ものすごいことだ。ナイフを作れるご先祖さまの集団は、これにより獲物の肉を切る、土を掘る、植物の組織を刻むなどの知識と技術と道具を手に入れ、生きていく上でさらに優位な立場に立ったのだ。他の集団が食糧不足で、あるいは気候変動への適応が困難で、ほかにもさまざまな理由で生存が不可能になったような場合でも、生き延びたり集団を維持したり、そして子孫を残したりすることが可能になったのだ。わたしは、この初めてのナイフを作り出した発明家のご先祖さまに、万感の思いを込めて言いたい。あんた最高だよ。



こんにちのブッシュ・クラフトと呼ばれる世界を伺い覗いてみると、一本のナイフからマグやカトラリーなどの生活道具を作り出す光景が見られる。そう、一本のナイフは、次なる様々な道具たちを生み出すことが出来る「母なる道具」といえるだろう。道具を作るとは、何を意味するだろうか。先に書いた肉を切る例にとどまらず、要するに自分の置かれた環境、あるいは状況を、より適切で好ましいかたちにイノベートしていくことに他ならない。道具を作るとは、生産性を上げたり、安全性を高めたり、快適性を得たり、大きな恩恵をもたらす行為なのだ。そしてどのような道具が必要か、道具の素材や機能を考えるという行為は、大脳の発達、手と指の発達に多大なる貢献をしたはずだ。ナイフの発明が何十万年前の出来事なのか、わたしは知らない。仮に百万年前の出来事として人類史に刻むことが出来るなら、わたしたちは少なくとも百万年、考え続けているのだ。考えることを止めた集団は巧く適応が出来ずに消えていった。考え続けた集団のそのまた一部が、遺伝子を残した。そのエリート集団のひとつから、あるときある場所でホモ・サピエンス・サピエンスが登場し、一部がホモ・ネアンダルターレンシスのDNAを受け継いで、アフリカから地球上へと広まっていったのだ。ナイフとは、知恵の道具だ。知恵の道具を獲得し、活用し、イノベートできたわたしのご先祖の一人は、三万年ぐらい前にこの列島に辿り着き、仲間を増やしていった。


そんな大昔のことを何故お前が知っているのか、だって?

この問いには、完全なる答えをわたしは持っている。それは、わたしが今こうして存在しているからだ。わたしの遺伝子は、宇宙から飛んできた訳じゃない。







松本市内の丘の上に、わたしの岳父の墓所がある。正月を前に掃除に行ってこよう。泉下の父祖たちへの感謝をこめて、この国では普通に行われる行為だ。午後の予定は? フィンランドから取り寄せたブレードに、ハンドルを接合してある。タング末端のカシメも済ませている。少し削っておこうか。それともレザーシースの仕上げが途中で止まっている。おっと、友人たちへ贈る予定のプーッコのハンドル選びもまだだ。すごい発見を成したご先祖さま、ありがとう。すごい発明をやり遂げたご先祖さま愛してるよ。わたしは、あんたがたが人類史に打ち立てた金字塔を、その誉れ高き行為のことを忘れない。西暦2019年の終わり近くに、地球上の全人類を代表して礼を言いたい。生きるって何だろうね。ようやくそれが少しだけ解り始めたから、こんな書き方するけどね。神奈川の或る神社のお祭りのことだ。悠久のむかしに鎮座していた場所が古社として残されていて、祭礼では神輿が古社へと渡御すると聞く。かつて集団が古社のあたりに栄え、そして今の場所に移ったのだそうだ。そのことを忘れずに、毎年の「例祭という記憶装置」を働かせているのだ。ご先祖さま、忘れないよ。あんたがたは石を探したり、割ったり、工夫したりしたんだね。わたしは、フィンランドから半完成品のブレードを取り寄せるような横着をしてるけど、いつか自分で鍛造してみせる。ハンドルを工夫する以上に難しいのは解ってるけど、あんたがたへの敬意を混めて、やってみようと思う。生きるって何だろう。それは意識的な行為なのだね。受動する、待ち受ける場面もたくさんあるのだろうけれど、みずから進んで獲得していかなければならないものなのだろう。最後にもう一回だけ書く。遠い遠いご先祖さま、あんた最高。