2018年2月11日日曜日

淫祠邪教の類いなのか....

(※一部に性的な描写、表現、不快感を誘引させる可能性のある字句画像等のコンテンツが含まれています。未成年者、教育関係者、祓行禊行中の方は閲覧をお控えください)


前の項で、社宮司大明神というふるいふるい神さまに出会ったことを書いた。諏訪あたりから辰野上伊那ではもっとも身近な神さまで、お諏訪さまそのものが実は社宮司さんだとする説もある。松本、安曇野ではあまり馴染みが無かったので知らなかったのだが、関東や東海でもお祀りされているようだ。武州練馬の石神井もそのひとつだと聞く。

漢字の当て方が実に多様である。考えるとどうも、文字が伝わる以前に広く各地に浸透し、呼び方もご当地風にローカライズされていたのだろう。 そこへ文字が伝わって、多様な表記が生じたと考えていい。それだけ古くからの神さまだと云うことだ。



松本近辺では、前項でご紹介した大村雪中の「社宮司大明神」のほか、和田という地区にもう一社鎮まっておられる。諏訪明神さんはそれこそ何十社とおられるが、社宮司さんはごくわずか、そう思っていた。


ところが、松本界隈では、調べてもまったく情報が出てこない社宮司さんに、短期間に何度も会ってしまうという奇妙なことが続いている。



平成30年1月30日、これは安曇野市真々部の社宮司さん。雪の朝に道を間違えて通った場所で、偶然に見つけた。



 何気なく読んだ案内板に、この祠は社宮司さんの祠である旨、書かれていた。



 
その帰り道だ。前を通るついでと言ったら失礼だが、近所の塩竈さまに寄ったのだ。拝殿の右側に、底の抜けた柄杓がたくさん奉納してあった。はてなんだろう? ぐらいの好奇心で背後の祠を見に行った。摂社、境内社と呼ぶのだろうか、本殿の両脇の神さまである。



そこにはまぎれも無く「社宮司明神」と墨書されていた。子どもたちと何度か遊んだことのある境内で、これは発見であった。社宮司さんは、松本界隈でもあちこちにおられたのだ。

底の抜けた柄杓のことは、のちに重要な意味を帯びてくる。



さらに、その翌日である。
休みを取っていて、博物館に出かけたのだ。あいにく休館日で翌日に出直した訳だが、その帰り道、まったく馴染みのない住宅街の片隅で、またしても社宮司さんに捕まってしまったのだ。重ねて書くが、松本の社宮司さんリストなるものは調べても出てこない。知らない土地の初めて通る道で、社宮司さんがわたしを待っていた。としか思えない。



 平成30年1月31日、松本市の寿の片隅にて。事前情報なしに出会えた。



その案内板である。「みしゃぐじ」の表記、石棒信仰、子どもの神さま、とある。重要なキーワードである。


それから、この神さまはどんな神さまなのだろうと調べてみた。たまたまヒットした画像が辰野町沢底におわす社宮司明神さんで、いわゆる『陽石』とも呼ばれる男性のかたちである。社宮司さんは『石棒』のお姿である場合が多いこともわかった。



ちょっと待て。

そのお姿をどこかで見たような気がする。わたしは出かけるために着替えながら記憶を整理して、すこし離れた惣社というまちを目指した。



平成30年2月11日。「惣社伊和神社」さんというお宮に来た。惣社という地名は「総社」から転じたもので、古代に信濃の国府が置かれた場所と伝えられている。




たしか境内に、辰野町沢底のミシャグジさんそっくりのお姿が在ったようだが....



おわしたおわした。鎮まっておられる。悠久の時の流れを越えて、そこにおわしたのだろうか。まさしく、辰野町沢底の社宮司さんのようである(冒頭の写真)。


やややや。

そういえばである。ここ惣社から北東の方角へ1kmほどの美ヶ原温泉には、よく知られた『道祖神祭り』という奇祭が伝わっている。秋に、道祖神さまのご神体が神輿に仕立てられて、温泉街を練り歩くのだ。そのご神体というのが、丸太をあの石棒と同じ形状にしたもので、畏れ多くもご神体に婦女子が跨がり揺さぶられるという、とても恥ずかしい神々しい祭礼なのである。

美ヶ原温泉の道祖神祭りについては、ネット上に動画も写真もたくさんあるのでご覧頂きたい。




あ。

そう言えば先日、近所の観音堂を訪ねた。すぐ向かいにある護国神社さんにお参りしたついでである。観音堂の中を、そっと覗かせていただいたのである。

 わたしは、驚愕してしまった。



なんと、清浄きわまりないはずの、観音菩薩像のおわす空間に、その隣に、なぜこのような「もの」が祀られているのだろうか。昭和の頃の、山奥の温泉地の「秘宝館」ではないか。みほとけのお教えへのカウンターパンチのようだ。うん、じわじわくる。



う。
思い出してしまった。あれは、島々谷でのことだった。2015年、島々谷を岳友のJと歩いていた。徳本峠で幕を張り、春の霞沢岳に遊ぼうという趣向である。右岸のみちを拾いながら、新緑の谷の風景を楽しんでいた。

岩陰に祠を見つけ、山の神さまにお参りして行こうということになった。

奉納されているのか、お祀りされているのか、同じお姿である。


いったい、何が起きているのだろう。
松本ではあまり馴染みの無い社宮司さんに、立て続けに出会えた。社宮司さんはお諏訪さまそのものとされている。しばしば縄文時代の石棒をご神体としている。道祖神や山の神も同じ姿形を備えていることが多い。社宮司、道祖神、山の神、みな「同じかたち」が関係してくる。一体なんなのだ。

社宮司さんは縄文の頃から祀られ続けてきた神さまだ。わたしはそこに「生きろ」というメッセージを汲み取った。塩竈さんは安産の神さまというが、それは傍らの社宮司さんの担当だろう。無事に産まれろ無事に育てと守ってくれる。底の無い柄杓は安産のメタファだ。道祖神は道の神集落の守り神で、子どもの神さま。多産と成長の守りが本業で、境界の守りは後付けだろう。山の神さまはたぶん豊穣を祈るプリミティブな精神性を表していて、豊穣すなわちいのちの源としての「同じかたち」を祀ってきたのだろう。

おい。その神さまたちは、もともと同じ神さまなんじゃないか?



近所の目立たない祠を訪ね歩いた結果、信仰の根元に埋められて忘れ去られた何かの欠片に、触れてしまったのかもしれない。続きは随時、書いてみよう。













2018年2月4日日曜日

縄文の神に会う

その日、わたしが出会ったのは、日本文化の最古層に祀られた縄文の神だった。


風薫る五月。鮮やかに緑したたる欅らしき巨樹といくつかの木立の塊は、田園の一角に鎮まる鎮守の森の風景だった。歩を進めて近づくとやはり、赤い鳥居とその向こうには白木の社殿が見えたのだった。

掲げられた扁額を見上げ、最初わたしはこれを「やしろぐうじ」と読んだ。最古層の神との出会いである。正しくは「しゃぐうじ」さん。




松本市大村の社宮司大明神。境内には公民館が並び建ち、古くから集落の鎮守の神さまとわかる。拝殿は木の香が漂い流れそうな白木であるが、本殿は古い造りなのだろう、覆屋が掛けられていた。境内には道祖神、三猿の石造物、常夜灯などが並んでいた。

説明板には『社宮司の本社は諏訪明神上社の神主守矢家の祝殿である』とある。よく読めば、諏訪大社ではなく諏訪明神となっている。お諏訪さまを明神さまとお呼びすることは、諏訪では一般的である。友人の諏訪人もそうである。この時は気付かなかったが、わたしはいくつもの「謎」という名の地雷を踏んでしまったようだ。上の説明文の「上社」「守矢家」「祝殿」あたりがそれである。このことはまた書く機会を得たい。




社宮司大明神の前には、田植え前の水田が広がっていた。燕舞う空の下に、三峰山と鉢伏山が写っている。三峰のすぐ裏が霧ヶ峰。そして八ヶ岳へと続く山並みがある。

後に知ったことだが、八ヶ岳の山麓から諏訪にかけて、社宮司さんは集落ごとにお祀りされているらしい。諏訪の地では「みしゃぐちさん」と呼んで親しまれ、また崇敬されているという。そしてお諏訪さまの本質的な、というか「もともとの神さま」はすなわち「みしゃぐちさん」であり、その起こりは縄文時代から続く信仰と祭祀であるという。ご神体の多くは数千年前、縄文時代中期に作られた「石棒」で、男性を象った石器だという。わたしは何やらアニミズム的なその要素を知って、社宮司大明神さんに親しみを覚えながらも、謎めいた思いを払拭できずにいた。






時は過ぎ季節は移ろい変わる。

旧blogに書き散らしたことなので採録は避けるが、昨夏のある日、わたしは塩尻の平出考古博物館を訪れ、縄文土器の装飾と土偶たちに対面する機会があった。当時の人々が粘土に彫り込んだ表情に、ある特徴的な「顔」があって、わたしはその表情から発せられたメッセージのようなものを読み取ろうとしていた。展示を眺めていても答えは得られず、帰宅してからはっと気付かされたのだった。

メッセージは「生きろ」というものだった。

生と生命に向けられた「希求」だった。我が子に向けて無事の誕生と成長を祈り願う、いのちのメッセージだった。その瞬間、わたしにとって縄文人という存在は、「展示物」ではなくて「ルーツ」として昇華したのだった。そう、土偶に顔が刻まれてから連綿と200世代ぐらいを重ねて、いまのわたしが居る。

存在し、生きていることの奇跡を感じた瞬間だった。





ぼんやりと暮らして年を越し、少し前に幻視を得た。前項で書いたように、塩の道を辿って黒曜石や塩、翡翠を携えた縄文の旅人がこのあたりを往来していた様子を思い浮かべたのである。きっといまでも、あの土偶の顔が、わたしに何かを語りかけ続けているのだろう。




真冬の一日、松本市中山にある松本市立考古博物館を訪れた。

街角で眺めたある縄文土器の写真に、魅せられてしまったのだ。そしてどうしても、本物を眺めたくなった。



 『縄文の美・その形と心』展。左側の土器がお目当てである。平成30年3月11日まで。


 うむ。これである。
 『有孔鍔付土器』である。樽型の土器の口のところに孔が開けられている。この孔が問題で、一説には皮を張って太鼓として鳴らした、あるいは酒を醸すにあたって蓋を留め、発酵ガスを逃がした、などと議論されているようだ。


いずれにせよ、音を出したり酔わせたり、呪術か祭祀に関わる遺物だと考えられている。わたしが魅せられたのは、土器の肩に並んだ装飾、文様である。 瓜を半分に切ったような造形である。わたしはこれを、貝と見た。少年時代の一時期、長崎千々石湾という温かい海の畔で過ごしたことがある。砂浜に降りて汀を探すと、タカラガイと呼ばれる仲間の貝殻が落ちていた。とてもきれいで、愛らしくて、拾っては大切にしていた。その貝殻の姿にそっくりなのである。

おそらくこのタカラガイそっくりのモチーフは、女性的なかたちから多産と豊穣のシンボルと見て間違いあるまい。海を知らなかった中央高地の縄文人たちがタカラガイを知っていたのだろうか。想像は飛躍する。前項で書いたように、遠い海辺の土地と交易・交流があって、タカラガイが原始通貨として使われていたのかもしれない。



この左右対称の渦巻きのような文様にも、何か象徴的な意味合いが示されているのだろう。こうした「記号」が読み解かれて行くかもしれないと想像すると、なにやら胸が熱くなる。






ほかにもたくさんの土器に出会えた。これは明らかに蛇であろう。
受付の事務所で確認すると、写真撮影は許可されているという。その男、過去に別なところで「博物館という場所にはシャッター音が似合わない」ということを書いているが、貸し切りなのであっさり宗旨替えである。これは絶好の機会と、思う存分アイフォーンのカメラに収めた。



うむむ、美しい。たくさんの顔が付けられているように見える。



これも蛇のようだ。



 虚ろに穿たれたその孔....。



すばらしい展示である。二時間以上を過ごしてしまった。

帰りがけにカフェに寄り、タブレットで『有孔鍔付土器』を調べてみた。画像検索をかけると、たくさんの似たような土器たちが表示された。いろいろな種類があるのだな、いつか本物を見に行きたい...。そう思いながらも、「わたしの有孔鍔付土器」がなかなか出てこない。もっと有名な土器がたくさんあるからだ。そこでわたしは、撮影した写真に写っているキャプションで調べることにした。さきに掲げた写真を拡大すると『大村塚田遺跡』と判別できる。ここで出土したのだ。今度は遺跡名で検索をかけるとなんと発掘調査の報告書が読めるというではないか。

大村塚田遺跡。DLした報告書には、46軒の縄文時代中期の住居跡が発見された、とある。そのうち3軒には祭壇があって、マツリが行われていた。土偶が33点! ミニチュア土器や土鈴まで出ている。なんとも呪術色の濃いムラである。さらに、石棒と考えられるモノまで出土(37ページ)、もう心臓がばくばくしてきた。
 
ここだ。ここで「わたしの有孔鍔付土器」が発見されたのだ。帰り道に寄ってみることにした。ルートを考えながら、一種の不安感のような予感のような、ある思いが浮かんでいた。遺跡の地図を確認しよう。

報告書のスクリーンショットである。

がつんとやられた。地図の左上に、社宮司大明神とある。 去年の春、わたしがふらりと訪ねて参拝した、鎮守の森である。予感は確信に変わった。

背景に溶け込んで判りにくいが、電柱の影の先に社叢が見えている。つまり、このとき、わたしは縄文のムラの上に立っていたのだ。この目の前の、雪に覆われた田んぼの下から「わたしの有孔鍔付土器」が出たのだ。 



やはり間違いなかった。社宮司さんである。この神さまは諏訪地方では「みしゃぐちさん」と呼ばれ、縄文時代から続く信仰、諏訪信仰そのものの原点とされている。縄文時代の石棒を神体として祀り、蛇の姿をしているともされている。


途方も無い遠回りをして、この地点に戻ってきてしまったようだ。

去年に出会った社宮司さんが鎮まる場所は、かつて縄文のムラだった。そのムラではマツリが行われ、土偶や石棒がイノリに使用された。その場所に祀られている社宮司さんはすなわち、縄文の頃の神さまがずっとここにとどまっておられるということだ。

5000年もの永きにわたって鎮まっておられる社宮司の神さまに、わたしはあらためて参拝した。遠い祖先たちが「生きろ」と込めたメッセージを、悠久の時を隔ててもう一度受け止めることができた。


いまを生きて在る自分自身に起きている「現在進行形の奇跡」の重みを、もう一度考えることにしよう。