2020年5月22日金曜日

芹と鶏肉とわたし


拙宅から歩いて行ける森の奥に、小さな泉がある。泉の周りは芹(せり)が自生していて、この季節には瑞々しい新芽を摘むことが出来る。山主も「かまわねぇ」と許してくれているので、春から初夏にかけて何度もセリ摘みに出かける。








ちょうどよいサイズのを、その日食べる分だけいただいて来る。




セリがあるところには当然毒ゼリも生えている。誤食するとまあ、何と云うかおふくろたちがすんでいるところに行けるのだろう。




鶏もも肉と豆腐と茸と、澄んだだし汁で食べるのがわたしの好むところである。





むかし仙台で教わった食べ方に根を食べる、というのがあった。よく洗って泥を落とし、鍋に炊き込んでしまうとこれが美味い。独特の甘みとほろ苦さが渾然となって口一杯に広がる不思議な味わいである。





前夜の残ったところにまた豆腐を足したりしながら、最後は餅を煮たり雑炊にする。芹の香りが移った煮汁が、喩えようも無く好ましい。そんなことを友人に話したら、お前の喰い道楽は入り口にも立っていない、と莫迦にされた。友人曰く、鶏と芹で出汁が出ているならば、そこへ濃いめの醤油を加え、蕎麦を投じるのが至高であるという。なるほど蕎麦の香りのみぎひだりで芹と鶏が奏で合う交響楽が、脳内に響いた。その友人は蕎麦打ちの名人である。「隠し味に大根おろしを少し」とまで教えてくれた。美味いものを探して行くと、どこまでも奥行きの深い世界を彷徨うことになるのだろう。うむ。芹と鶏肉と、蕎麦か。








2020年5月18日月曜日

possibles pouch


ある欧米のブッシュクラフターが、革で作った小さな巾着のようなものを動画で紹介していた。コイン入れにされていたが、探してみると類似の巾着がどんどん出て来る。ほほう、作り方にも何通りかの工夫があるらしい。一般的にはpossibles pouchと呼ばれているようだ。そういえば近所に住んでいるブッシュクラフトの神さまも、自ら鞣した革の小袋を使っていたっけ。




巾着袋の位置づけもそれぞれで、EDCだったりファーストエイド・キットだったり、火起こし用の火打石入れだったり、流儀もありそうだ。手慰みにちょうど良さそうなので、三つほど拵えてみた。





いちばん小さいpossibles pouch。玉子がふたつ入るぐらい。カトラリか火起こしの道具入れにちょうど良さそうだ。






このような使用イメージだろうか。





筒状に縫い合わせたレザーに底をつけて口を巻いて使うタイプのpossibles pouch。チタンマグの600がすっぽり入るが、これでは口を巻けない。450マグで極小アルストを組み込んだ珈琲セットに使えそうだ。








プーッコと一緒に写真に納まっている。ふむ、こうして眺めるとこのプーッコも悪くない。





これは「縫う」作業が一切無い造りのpossibles pouch。丸いレザーに紐用の穴をあけ、革ひもを通しただけ。







以前ご紹介した「花梨ハンドルのプーッコ」とよく似ているが、ハンドル形状が異なるプーッコを一緒に。




面白いものだ。たかが小物入れ。されど、である。


森の片隅の赤松の切り株の上で、小物たちを広げてみる。筒状のpossibles pouchには、写っている大きな方のプーッコ以外、収まってしまう。




さて。冒頭でご紹介したブッシュクラフトの神さまの革袋である。ロードキルでお星さまになってしまったタヌキ氏の毛皮を手ずから鞣して製作。わたしのとは次元が違う!






 

2020年5月1日金曜日

ただのどかなだけの風景


日々を遊び暮らしているようで、手応えの無い時が移ろう、はずなのに、わたしの時は止まってしまったかのようだ。裏の丘を越えて湖へ足を運んだ。湖面のさざ波が空の青さを映すのを拒んでいる。





奇妙な形の雲がいくつも浮かんでいた。夕方、小川のほとりや果樹園の傍らを歩く、また走る人が増えたようだ。









桃園の花が開いている。うすくれないのグラデーションは、夕闇に沈みかけている果樹園にともった灯りのようだった。









これはラ・フランスの花だ。ほんのひとときだけ、甘い香りが漂いながれる。





裏手の丘に、静かに風が流れる。






農家の裏手の菜の花畑。家の周りの野に出てぼんやりと過ごす時間が増えた。





丘から見下ろす田園。その先にひろがるまつもとの町並み。





奈良井川を見下ろす。




この春、上高地へと向かうバスは止められている。人影のない河童橋の向こう、残雪眩しい穂高の吊尾根がまぶたに浮かぶ。仕事場からの帰宅中、常念のまうしろに夕日が落ちていった。