春にかき取って生のまま醤油漬けにしておいた行者にんにくがある。もともとの株は近所の山の泉の畔から失敬してきたやつで、庭に4、5株ほどを植えておいたら毎年葉を伸ばすようになった。
普段は鰹のタタキと合わせたり、冷や奴に乗せたりしていたが、玉子とじというのを試してみた。
これが材料である。これ以外には、炊飯器の中で炊きあがり蒸らされている松本産コシヒカリがあるのみである。白出汁は、市販のものである。玉子も同じくである。容器の中に見えるのが、庭の行者にんにくである。
行者にんにくを刻む。願い叶うのならば、葉ではなく白く柔らかい茎だけを使いたい。でもそれは、叶わぬ夢である。願いは夢のままこころに宿しておこう。
ひとりで玉子を三つも食するのか、と問われれば、顔を赤らめて肯定しよう。ミドルがそんなことをして.... と絶句されるのは解っておる。解った上であえて無茶無謀をするのが本稿の趣である。日曜日の朝、その男のめしというものは限りなく贅沢で良いのだ。
そういえば、池波正太郎さんの作品の中で、巡る因果の風車、真剣を以ての果たし合いあるいは敵(かたき)討ちに向かう剣客が、まだ明けやらぬ薄やみの頃、生玉子をふたつみっつ、椀に割り入れて腹に収める場面があったように記憶している。一方で、果たし合いに向かう因果も無き凡庸なミドルに、南無八幡の神徳が必要でもあるまいに。玉子を割りながら忸怩(じくじ)たる思いに抱きすくめられるというのも、その男の生き様である。
刻んだ行者にんにくと溶き玉子を、ごま油を敷いたフライパンに注ぐ。
フライパンの柄のところを手刀でとんとんと叩き、ふわっふわにまとめあげながら巻いてゆき、つまりはオムレツである。
これが炊きたての松本産コシヒカリの上に乗せられると、事情がちと変わってくる。コシヒカリは従兄弟が作っているやつで、女鳥羽川の清流の恵みそのものである。松本市三才山稲倉という場所に、国道254号にかかる橋の傍らに分水堰がある。岩魚も山女魚も棲む清らかな流れを、この堰からどうどうと引き込んで田んぼに張る。そして実ったコシヒカリが、わたしの目の前のどんぶりに、炊きたての湯気をのぼらせて盛られている。
白いめしの上に黄色い玉子とじが乗る。行者にんにくの緑の茎と葉がのぞく。そこへ出汁が香る。
オムレツ状の玉子とじを、崩してみよう。
ぷるっ。
とろっ。
じゅわっ。
また新しい湯気が立ちのぼった。
ぷりっぷりっに炊きあがった飯粒と一緒に、箸ですくってみる。固まり切っていない玉子が、滴り落ちる。
「ふくよかな見た目の中に滋味と芳香を忍ばせ、それこそ、えも言われぬ....」 池波正太郎さんなら、こう書くだろう。わたしの語彙では、「美味そうだ」ぐらいにしか書けないのがもどかしい。
蕗を炊いたものとねんぼろ味噌を添えてある。思えば本稿は初夏の頃に書きかけであったものだ。季節は巡り、蕎麦の花を眺め稲穂の実りを見る頃である。わたしは、相も変わらずに飯をどんぶりに高々と盛り、それをお替わりする。林檎の樹の葉が黄色く染まるころ、それでも「まだ足りない」とここに書くのだろう。
その男、いくつ年を重ねても、成長がない。