2018年9月9日日曜日

行者にんにくを玉子とじに...


春にかき取って生のまま醤油漬けにしておいた行者にんにくがある。もともとの株は近所の山の泉の畔から失敬してきたやつで、庭に4、5株ほどを植えておいたら毎年葉を伸ばすようになった。

普段は鰹のタタキと合わせたり、冷や奴に乗せたりしていたが、玉子とじというのを試してみた。






これが材料である。これ以外には、炊飯器の中で炊きあがり蒸らされている松本産コシヒカリがあるのみである。白出汁は、市販のものである。玉子も同じくである。容器の中に見えるのが、庭の行者にんにくである。







行者にんにくを刻む。願い叶うのならば、葉ではなく白く柔らかい茎だけを使いたい。でもそれは、叶わぬ夢である。願いは夢のままこころに宿しておこう。






ひとりで玉子を三つも食するのか、と問われれば、顔を赤らめて肯定しよう。ミドルがそんなことをして.... と絶句されるのは解っておる。解った上であえて無茶無謀をするのが本稿の趣である。日曜日の朝、その男のめしというものは限りなく贅沢で良いのだ。

そういえば、池波正太郎さんの作品の中で、巡る因果の風車、真剣を以ての果たし合いあるいは敵(かたき)討ちに向かう剣客が、まだ明けやらぬ薄やみの頃、生玉子をふたつみっつ、椀に割り入れて腹に収める場面があったように記憶している。一方で、果たし合いに向かう因果も無き凡庸なミドルに、南無八幡の神徳が必要でもあるまいに。玉子を割りながら忸怩(じくじ)たる思いに抱きすくめられるというのも、その男の生き様である。








刻んだ行者にんにくと溶き玉子を、ごま油を敷いたフライパンに注ぐ。







フライパンの柄のところを手刀でとんとんと叩き、ふわっふわにまとめあげながら巻いてゆき、つまりはオムレツである。






これが炊きたての松本産コシヒカリの上に乗せられると、事情がちと変わってくる。コシヒカリは従兄弟が作っているやつで、女鳥羽川の清流の恵みそのものである。松本市三才山稲倉という場所に、国道254号にかかる橋の傍らに分水堰がある。岩魚も山女魚も棲む清らかな流れを、この堰からどうどうと引き込んで田んぼに張る。そして実ったコシヒカリが、わたしの目の前のどんぶりに、炊きたての湯気をのぼらせて盛られている。

白いめしの上に黄色い玉子とじが乗る。行者にんにくの緑の茎と葉がのぞく。そこへ出汁が香る。


オムレツ状の玉子とじを、崩してみよう。




ぷるっ。

とろっ。
じゅわっ。



また新しい湯気が立ちのぼった。






ぷりっぷりっに炊きあがった飯粒と一緒に、箸ですくってみる。固まり切っていない玉子が、滴り落ちる。





「ふくよかな見た目の中に滋味と芳香を忍ばせ、それこそ、えも言われぬ....」 池波正太郎さんなら、こう書くだろう。わたしの語彙では、「美味そうだ」ぐらいにしか書けないのがもどかしい。





蕗を炊いたものとねんぼろ味噌を添えてある。思えば本稿は初夏の頃に書きかけであったものだ。季節は巡り、蕎麦の花を眺め稲穂の実りを見る頃である。わたしは、相も変わらずに飯をどんぶりに高々と盛り、それをお替わりする。林檎の樹の葉が黄色く染まるころ、それでも「まだ足りない」とここに書くのだろう。

その男、いくつ年を重ねても、成長がない。















北へ、南へ。




今年の盆は、山には入らず下界で過ごしていた。

北信濃の方に見ておきたいものがあったので、家人を誘って出かける。行き先は小布施町の『北斎館』で、要するに画狂人・葛飾北斎の作品を肉眼で眺めてみたかったのである。





お目当ては、この町の屋台の天井画『男浪』『女浪』のオリジナルである。信州では普通に「屋台」と呼ぶが、「山車」の方が一般的かもしれない。その屋台の装飾として北斎86歳にして描いた肉筆画である。写真は、記念に求めたポストカード。

かつてないほどの酷暑の日々、この日も北斎館の屋根に突然の夕立の雨音を聞くほどであった。そんな折りである、わたしは二枚の怒濤の絵の前に立ち尽くしていた。

全身の皮膚が粟立ち、震えていた。

大して冷房が効いている訳でもない展示室で、悪寒を感じるほどの震えが起きていた。何と云うのだろう、このようなものを眼前にして、わたしには表す言葉もなかった。ただただ、凄みに圧倒されて打ちのめされて、息を荒くしているしかなかった。めずらしく同行している我が家の中学生の兄妹も、この展示室では神妙にしていた。







北斎館を後にしたわたしたちは、長野市の茶臼山動物園に向かった。夜の動物園を開放するという企画で、園内で夕涼みのように過ごせるのである。思いのほか人気のようで賑やかなまでに来園者が居た。家族で来ることが出来て良かったなどと思い巡らし、様々な動物の展示を楽しみながら、暮れ行く善光寺平を眺めていた。











時は移ろう。



伊那谷に所用があり、家人の運転で南へと向かう。長野道から中央道へ入ると風景がとても新鮮に感じられる。思い返せば一年ぶりで、その時も同じ目的で伊那谷へ入ったのだ。

所用を済ませると昼時で、どこの蕎麦を手繰ろうかと真剣な議論になる。家人は蕎麦好きで、出先でのメシは蕎麦屋の開拓と決まっている。この日は二、三の候補からわたしが推した『こやぶ 竹聲庵』へ向かうことになった。












伊那谷の蕎麦畑。一面に咲く白き花を、いかなる言葉で愛でたら良いのだろうか。この風景に、果てしない旅情をかき立てられる。遠くへ行きたい、旅をしたい。





評判の店だけあって混んでいた。地元産のそば粉限定、十割の蕎麦を頼む。出てきた蕎麦は大変に好ましい面構えであったが、静かな古民家の佇まいにシャッター音を響かせる気になれず、載せるような写真は撮っていない。





見慣れぬ風景の美しきこと。小さな旅であるが、良い旅に出ることが出来た。






変哲のない日常に過ごしながらも、ある宵、玄関先から空を見上げれば、息を呑むような光景が広がっている。「旅」というものは、地点と座標の移動のいきさつにあるのではなく、「場所」という物語性の文脈の中にあるのだろう。その「場所」から見上げる空は、そのとき間違いなくわたしがそこに居た、ということを証明してくれる。中原中也がその作品で歌ったように、「ゆふがた 空の下で 身一点に感じ」たのは中也の詩人としての到達点なのだろう。わたしには未だ到達点というものはなく、終わりなき旅路を生き急いでいるだけだ。だからこそ、一瞬一瞬の存在の証明をトラックログのように刻み確かめながら、旅を続ける。



近いうちに、ふたつの旅を企てている。

ひとつは、ふたりの女性に逢いにゆこうという旅だ。彼女たちは、この夏の間、東京に過ごしたと聞く。上野の「東京国立博物館」で展示され、企画展の終了とともに信州へ帰ってくるだろう。帰ってきた『縄文のビーナス』と『仮面の女神』に逢うべく、わたしは小さな旅に出るだろう。

もうひとつ、善光寺街道を歩こうと企てている。信州松本の拙宅近くを通る善光寺街道は、正しくは「北国西脇往還」と呼ぶようだ。この古き祈りの道を、ご近所を起点に3回ぐらいに分けて歩く。鉄道をうまく使って区間を区切り、毎年正月に詣る善光寺さんへ歩き通すのだ。善光寺ご本堂では初めてのお戒壇巡りも楽しみである。



どちらも小さな旅である。小さな旅であるが、時空を超えて「場所」を、「祈り」を乗り越えてゆかねば辿り着けない、わたしのグレートジャーニーである。