2019年3月16日土曜日

水神さまに会う

入山辺という谷あいの土地は、美しい謎に満ち充ちている、信州のまほろばである。

扉峠辺りから流れ出す薄川(すすきがわ)が刻んだ谷が、北西方向に下っている。谷へと落ち込む斜面には、葡萄畑といくつかの集落が貼り付いている。集落から下流の谷の出口を眺めると、いつも槍や常念が見えている。谷あいの土地でありながら、少し不思議な気持ちになる。創建いつの時代とも知れぬ神社や古刹がある。石器時代の戦略物資とも言える黒曜石の産地、和田峠にも近く、原始の人々の暮らしや往来の痕跡がある。さらに、すぐ下流の里山辺には、たくさんの古墳が造られた。原始から古代にかけての、時代のうねりと共にあった土地である。時代が下って戦乱の世、谷の両岸にいくつもの山城が築かれては滅びた。先の大戦末期には地下軍需工場が掘られるなど、谷は激動の時代を見守ってきた。



▲宮原集落から王ヶ頭を仰ぐ


この入山辺をGoogle Mapで彷徨していたら、『寺所 山神』というスポットを発見し、気になって現地に赴いてみた。これはある週末の事で、道路脇に小さな祠を発見することが叶った。ところが、帰宅後によく調べてみると、違うようだ。マップ上の位置も100mぐらい異なるし、写真もあきらかに違う。

地図を航空写真に切り替えてみた。すると踏み跡のような細い道がある。そこで次の週に出直したのが、これから書く事柄である。


一週間前に見つけた祠の手前を、山の方に上がってゆく小路。やがてせせらぎが現れ、害獣避けのネットをくぐる。




ネットの向こうのコンクリートの建造物が目に入ると、その傍らの鳥居に気がつくだろう。





自然木をそのまま組んだ素朴な鳥居の向こうに、山の神がおわした。




自然石に刻まれた「山神」の二文字とお札。

大山祇神御本殿とある。本来は山村で祀られていた名も無き「山の神」だったのだろう。これが無理矢理に記紀の神話の神様に置き換えられている。それでも、集落の人々から大切にお祀りされている様子がうかがえる。明治の頃、素朴な信仰までもが伊勢神宮を頂点とする大系の末端に組み込まれていった結果だろうか。ふとそんなことを考えたが、ここは残されただけまだ幸運な事例だろう。あちこちの「山の神」を訪ねると「跡」地が多すぎるのだ。そして決まって案内板に書かれている。曰く、明治年間に某所に合祀された云々。

右となりには白い石祠。こちらは稲荷神のようだ。水田の守り神もいつしか違う性格を備えて、こうして山村で祀られている。神々は、しばしば書き換えられ、置き換えられるのだ。



山の斜面の神域は、とても清々しい場所だった。来て良かった、そう思えた。わたしは山神さまにお礼を言って「また、まいります」と呟いた。





妨獣柵を潜るときに最初に目についたコンクリートのすぐ下には、ごぼごぼと音を立てて水が流れていた。バルブのようなものも見える。水源施設か、と思われた。わたしは水の流れのみなもとを確かめたくなった。なにか、囁きか呼び掛けのようなものを感じたのかもしれない。






開けた谷のような地形に立っていた。実は、巨岩が聳えていて岩磐のような、あるいは御神体のような存在を期待したのだった。流れは半ば伏流しており、歩くに支障はない。けれどもなにか特別な存在の気配はなにもなく、所々に石積のようなものが見えるだけだ。谷底の斜面を遡っていく理由が見当たらず、わたしは立ち止まった。久しく山にも入っていない。ならばこの静かな谷にもう少し過ごしても良いだろう。そしてまた上流へと歩を進めた。






突然だった。足元ばかり見ていて、堰堤のように組み上げられた石積みに気づくのが遅れた。刻まれた「水神」の二文字が、さきほどお参りした山神さまの二文字と交錯していた。この場所も、美しい気に満ちた、清々しい場所だった。呼吸する度にわたしが清められていくような気持ちになれる。目をつぶってしばらく、地面の下を流れる水の流れを探ってみた。音もある。振動ではないが、感じられる気配がある。ここは、山と大地が水を恵む、たしかになにごとかのおわす、聖なる場所である。

この石積の先は水源だ。部外者が土足で踏み入る必要もあるまい。わたしは水神さまに「また、まいります」とさっきと同じことを呟いて、この清らかな谷を後にした。



山の神と田の神は、しばしば同一視される。田を潤す水の恵みを与えてくれるのは山の神だからだ。先ほど訪れた山神さまは、その奥の水神さまとは別々の神さまだろう。けれど偶然にも山神さまと水神さまに対面してしまったわたしは、祈りの根元の、その根っ子を素手で触れたかような、奇妙に高揚した感情を抱いた。行き着くところは自然への畏敬。山に水源に森に、霊威を感じカミとして祀った昔の人のメンタリティに、こころを揺り動かされた瞬間だった。





わたしは寺所集落を下って薄川を渡り、対岸の宮原集落へと向かった。



鎮守の宮原神社に着いた。ここの御柱祭りは、松本市の文化財として登録されていると聞く。御柱祭を行うということは、つまり諏訪明神をお祀りしているのか? 諏訪明神とはいかなる神さまか、という切り口になるとわたしには手に負えない難しい話になってしまうのだが、近隣で御柱祭を行う「大和合神社」と「須々岐水神社」は、諏訪明神をお祀りしていることになる。少し下流の橋倉と南方の両集落にも諏訪明神が鎮まる。祭神がタケミナカタ神であるならば、信州開闢、あるいは水稲耕作を教えてくれた神さまとして、水神の性格でお祀りされていることが多い。

ならばここ宮原神社も水神を祀っているのだろうか。




立派な御柱である。





境内の裏手、御本殿のすぐ後ろを、水路が流れていた。電力会社の導水路だった。木立は宮原神社の社叢である。





近くに「中部電力 薄川第一発電所」の施設があるのを思いだし、寄ってみた。引退した水車などの発電設備が展示されている。背景が発電所の建屋。案内板には、明治39年12月、ここでつくられた電力が松本平に最初の電灯を光らせた旨の説明があった。

山里の集落の鎮守、諏訪明神のおわす本殿のすぐ後ろを導かれた水路が、電力を産み出す。この事実は、今日の水神さまの在り方を象徴しているように思えた。




冬の終わりの一日、わたしは山の神さまを訪ねて、水神さまに会えた。













2019年3月11日月曜日

三才山 鎮守社跡


三才山地区に、本村という集落がのどかな山村たたずまいを見せてくれる。御射神社秋宮が鎮座する、とても景観好ましいところである。女鳥羽川の対岸を国道254号が走るが、集落は静かである。三才山とは諏訪信仰で初秋のお祭りが行われる「御射山」であり、御射神社は諏訪周辺に土着の神として祀られている「ミシャグジ神」である。であるが本稿で諏訪明神とミシャグジ神のことについて書くと袋小路に入り込んでしまう。わたし自身、未だこの深遠なるテーマには近づけずにいるのだ。



この本村集落の辺りをGoogle Map で眺めていたら、「鎮守神社跡」というマークが現れた。わたしは最近、Google 社の完全な監視下に置かれている。このblogもGoogle アカウントで書いており、タイトルにも本文中にも「神社」が頻出。画像データには赤い鳥居がたくさん写っており、わたしが使用する検索ワードは「古宮」「奥社」とかそんなのばかりだ。わたしは坊主頭を15年以上続けているから美容院を検索しない。だからGoogle Map にヘアサロンを表示する替わりに、神社系をやたらリコメンドしてくる。

そんな経緯があって、地元の人も知らない本村の「鎮守神社跡」を地図上で知ることになった。





気になって、ある週末に現地へ赴いた。そこは、枯れすすきが風に揺れる山林だった。





案内板に書かれていた小祠は確認できなかったのだが、「腹神様とも言われ、幼児がお参りすると腹を病まない」の一説が印象的だった。

帰宅してG社に「腹神様」とはなんぞ、と問うたら、「はらやまさま」或いは「みさやまさま」と関連付けて色々教えてくれた。最大の驚きは、「はらやまさま」も「みさやまさま」も、固有名詞ではあるがほぼ一般名祠的に各地で行われている年中行事であり、また神社の祭礼だったことだ。

なんと、諏訪明神の奥社の「御射山社」を勧請したのが当地の御射神社、という認識でいたのだが、「はらやまさま」も「みさやまさま」も信州各地で古くから行われているらしく、その事例を知ることができた。実はここで「ススキ」「カヤ」「箸」「幼児」「腹を病まない」等のキーワード群にぶち当たり、わたしは困惑している。いまはこれらキーワード群を掘る余裕がないため次の機会に譲るが、諏訪信仰とススキの関連性はいずれ調べておかねばならないようだ。







日を改めて、案内板にあった小祠を探しに再訪する。今回は浅間峠という古道を越えていった。


浅間峠の様子である。いまでは地元民も滅多に使わない道である。かつては松本藩公も参勤交代で越え、また御射神社春宮と秋宮の間を祭礼の押し矛が渡御したという。そういえば、その押し矛もススキの穂を束ねた飾りが付いていた。

なお松本藩公の参勤経路は、後に刈谷原峠を越える善光寺街道に切り替えられる。それでもこの細道は、御射神社春宮と秋宮を結ぶ祈りの道であるから、それなりの重要性を保っていたはずだ。この先にかつて鎮座したという「鎮守神社跡」とは、この浅間峠越えの道を見下ろす高台である。神社跡と古道とどんな関わりがあるのだろう。




浅間峠を下って本村集落に近づくと池がある。正面に戸谷峰を間近に眺め、春には満開の桜が天を覆う。浅間温泉に棲み暮らした時期に、酒瓶を携えて来たことがある。一升瓶を空にして帰りに峠へ登り返すのがえらいこっちゃで、帰宅した記憶がない。






さておき前回発見できなかった小祠を探そう。見上げれば、すぐそこに見えていた。





赤松の生えた斜面に、東南東を向いた祠がおわした。何かを書き付けたお札のようなものが見えたが、そっと眺めるに留めておいた。





祠が向いておられるのはどこだ?




中央のこんもりした森が、御射神社秋宮である。案内板には秋宮に合祀されたと書かれていたが、古い鎮座地からいまに鎮まる場所を眺めておわすようにおもえた。




これが秋宮さん。以前に書いたが、秋の祭礼の時にススキの穂を束ねた飾りを見た。また秋宮の奥社とされる「のっこば奥社」では、祭礼のススキを採る場所との説明があった。



近所のお宮である御射神社のことが、ますます謎めいてきた。諏訪信仰とススキのことも含めて、随時加筆していこう。









2019年3月3日日曜日

芥子望主山で考えた。

やがて消えゆくもの。去り行く定めのもの。それはわたし自身のことであり、わたしが知りうる限り全てのもののことである。酔って書いているのではない。土曜の午後とはいえ、これをタイプする間、モルトを嗅ぐのを我慢しているのだ。

この辺りの郷土史を研究している方々の発表を見聞きする機会があった。善光寺街道とも北国西脇往還とも呼ばれる街道の宿場町である、筑摩郡岡田宿界隈の古代におけるさまざまな事柄である。平安時代初期の歌人で、小倉百人一首の「参議篁」で知られる小野篁に関連する史料から、同宿場町周辺の歴史を考察、検証している。なかでも、式内社である岡田神社の起こりと移り変わりについてのことがらに興味を覚えた。

そしてある春の日にわたしは、岡田神社につながる古いお宮の跡地と考えられている場所に出掛け、その往き帰りに去来した想念をここに書き残しておく。うろ覚えの事柄に起因する間違いがあるかもしれない。酒毒に冒された脳がやらかしていたらご指摘いただきたい。







自宅からも程近い塩倉池のほとりから戸谷峰を眺めている。あの山のことは、ここでもしばしば書いている。当地の風景において、独立峰としてかなりの存在感を際立たせているが、なぜか山頂の祠もなく祈りの痕跡も感じられない山である。




さて芥子望主山に向けて歩き始める。芥子望主山とは、岡田地区の一角の高まりで、古代に焼き物の一大生産地だったそうだ。芥子坊主と書かれることが多い。

行く手に火の見櫓のある集落の佇まいが好ましい。丘の上には古刹『塩倉山海福寺』の観音堂。帰路に寄ることにする。




おや。神幟を掲げるとは、この奥にお宮があるのか?

これから向かおうという古いお宮の跡では、いまでも神さまがおわしてお祀りされているということか。結果的には、途中に下記の路傍の神さまがおわした訳であるが、お宮はなかった。わたしには謎である。




路傍におられたのは青面金剛像。いわゆる庚申信仰の守り神さまである。わたしには庚申信仰のことはまだよく解っていない。お隣の杉っぱを被っておられるのは三峯さんだろうか。




なかなか立派なお姿である。




竹薮の小路では竹がきゅうきゅう鳴っていた。おおむかし、ひとはその声に霊的な、カミの存在を感じたことだろう。天地にカミが満ち充ちていた時代があったのだ。

この先には、池がひとつあるはずだ。情報によると塹壕上に抉れた道形が残っていて「十分ぐらい登ったところ」が目的地である。




道祖神のお出迎えである。

ここは集落の山側の境界に当たる。道祖神の起源は「山の神」ではないかと考えているわたしにとって、これは貴重な事例となるだろう。隣の小尾根にある海福寺観音堂の裏手にも、山側に道祖神が建てられている。一方、他の集落と繋がる道筋には道祖神がない。これは覚えておこう。




池のほとりから藪がかった尾根に取り付く。




情報の通り、塹壕状になっている。古い時代に頻繁に使われた交通路と考えて良いのだろう。古代、この山には数百とも言われる登り窯が築かれ、その製品は山麓に運び下ろされた。窯で焼かれた器の供給先とは古代の役所である。この岡田地区に信濃の国府が存在した可能性が指摘されている。かつては荷下ろしなどの往来があったのだろうか、いま目の前の道形はそのひとつかもしれない。




やがて平坦な場所に出た。中世の山城とは異なる印象、との話だったが、これは同感である。堀切とか城郭に見られる陰険な雰囲気は見られない。東西に開けて南面する雛壇状のこの場所は、神を鎮めておくには相応しい場所に思えた。





眼下に起点となった池が見えている。

不思議なことだ。まず集落の山側の道祖神。神幟を掲げる向こうにお宮がない。そして尾根に残された古い道形。





その先へ、明るい尾根を登ってゆく。
いま過ぎてきた平坦地は、おそらくお宮の跡地だろう。祭祀されている様子がないことから、集落の神幟の礎とは無関係なのだろう。事前に得ていた情報では、お宮とは塩竈神社の古社という。こんにち松本市蟻ヶ崎の地に鎮座する神さまである。

塩作りの神さまがこの山国の山の中に何故、という疑問符には、こんな解釈を与えるべきだ。日本海べりの上越糸魚川からは、当地に「塩の道」の交易ルートが開かれている。敵に塩を送るの故事で、不識庵謙信が武田領だった松本城下へと塩を運ばせたというあれである。小谷白馬と姫川を遡上しさのさか峠を越え、信濃大町から安曇野を南下して豊科高家熊倉の渡しを過ぎればやがて養老坂である。養老坂を登り切ったところが塩倉集落であるから、集落奥の高台に塩竃神社が存在したことに違和感はない。そう、塩倉の地名は塩の道を来た海産物の集積所に由来するのだ。





しばらく藪こぎを楽しんだら見覚えのある車道に出た。芥子望主の山頂公園が目の前である。




その塩の道を見下ろすように、芥子望主山頂の石像物が佇む。丸い穴が三つ穿たれた石祠、浅間神社碑、御嶽講、そして東を向く地蔵尊。




北側に三角点。





展望台から常念山脈を眺めると、蝶常念の鞍部に中岳が頂を見せてくれる。




戸谷峰、袴越山、その右に王ヶ頭。




遠景は鉢伏山。そして松本市街地を眺めている。

塩の道は何故、犀川に沿って南下遡上せず、高家熊倉の渡しを渡ったのか。松本城下へと向かわず、郊外の岡田地区に入る理由はなにか。

これは、塩の道が開かれ利用されてきたのは、いま考えられているよりも遥かに古い時代からだったと考えられないか。岡田塩倉から南西を眺めると、入山辺の谷の奥に扉峠が見える。そこを越えれば、三峰山麓に和田峠、すなわち石器時代に黒曜石を大量に産出した場所である。和田峠から八ヶ岳山麓に栄えたいわば縄文王国へと塩を運ぶ交易の道があったはずである。五千年前、この列島で最も人口密度が高く、高度な縄文文化が花開いた場所である。すべての道は、八ヶ岳山麓に続いていたはずである。

その頃、いまの松本市中心部あたりは湖の底だった。奈良井川と田川、そして梓川が合流する格好で深瀬湖と呼ばれ、深志の地名のもとである。当地に残る「泉小太郎」伝説も、この深瀬湖に因むのだろう。塩の道が真っ直ぐ南下するためには、この湖が行く手を阻んだのである。これがおそらく、高家熊倉の渡しと養老坂の存在理由だろう。どこまでも広がる湖水を渡る必要はなく、道筋は丘陵を越えてここ塩倉を中継地とし、八ヶ岳へと向かったはずだ。





御宝殿遺跡の案内板が立つ石祠。陸奥塩竃神社跡との説明がある。岡田神社柴宮の奥に鎮まる「柴入宮」と呼ばれていたとある。先ほど訪れた尾根上の平坦地もまた塩竃神社跡地とされる。両者の関連性はわたしには謎である。ここから東寄りに下ればすぐに、式内社の岡田神社が鎮座する。その岡田神社のこともよく解らない。延喜式に名を連ねる古社であり、そのさらに元となるお宮が伊深地籍に八幡宮として鎮座している。この八幡宮はなんと古事記に登場するというから、諏訪明神と同じく最古級の神社と言えよう。




扉峠方面と鉢伏山を眺めながら、伐採された山腹を下る。





足下の岩は礫岩だ。当地はむかしフォッサマグナの海の底で、その海底堆積物が隆起していまの地形がある。礫岩は海岸か河川の堆積物だろうから、浅い海だった頃のものだろうか。チャートのような固い小石は、西の蝶ヶ岳辺りから運ばれてきたのだろう。小石が汀で波に洗われて、こんなに丸くなったのだ。とすればこの礫は、三億年ぐらい前からプレート境界の海底で作られていた付加体コンプレックスというやつの欠片だ。右の丸いのは砂岩で、これは海の底の新しいやつだろう。新しいと言っても数百万年、それくらい昔のものだろう。






やがて山を降りて里へと着いた。目の前の左奥から右へ抜ける小道が、古い時代の塩の道とされている。松本城下が近世都市として造られてからは、塩の道は南寄りへ付け替えられた。わたしの棲む町内を通り、前の記事で書いた寿司屋の角を城下町へと続いている。もう黒曜石を掘る縄文の人々はいない。八ヶ岳山麓へ向かうのではなく、武家が支配する都市へと道筋を替えたのだ。





塩倉の池がまた見えてきた。この池の周りからも、縄文時代の遺物や遺構が発掘されている。




古道の腋に佇む馬頭観世音。隣にも草に埋もれて石碑か石仏か、なにごとかがおわす。




こちらも馬頭観音さんか。微笑みを浮かべた柔和なお顔を見せている。





民家の入り口に石が重ねられていた。祀ってあるようにも、飾ってあるようにも見えた。牛乳瓶はお供え物にも受け取れる。白い貝殻がこの石たちを聖別しているようだ。




塩倉山海福寺観音堂。この垂枝桜は見事なもので、あと五週間後には凄いことになっているだろう。毎年会いに来るのだが、鳥肌が立つほどの桜の樹というものは滅多にないものだ。垂枝桜は観音堂の前に左右一対で在ったのだが、向かって右の樹は枯れて切り株だけが残されている。桜の樹といえども、うたかたの夢のようにこの世を去ってゆく時が来ると、みほとけは教えてくれる。




観音様の視点から眺める。もうすぐこの丘は、杏と林檎と桜の花に覆われる。花は咲き花は散り、樹もいつかは枯れる。諸行無常のことわりか。




塩倉池の畔に帰り着いた。

ひとの営みは、歴史の中にさまざまなかたちで刻まれる。残るものもあれば消え去るものもある。五千年前の縄文の人々は、黒曜石の矢じりや土器の欠片を地中に残して、その存在を伝えてくれる。時代が下って、社に神を鎮めて祭祀を続けても、廃れたり遷したりすることで消えることもある。わたしたちは全て、消え去りゆくものだ。何を残せるかを選択することすら叶わず、せめて石に刻んだ祈りの痕跡ぐらいを後の世に伝えるのみか。


行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。わたしという小さなうたかたが、いま浮かんで、やがて消えようとしている。