2018年5月28日月曜日

平成最後の梅仕事はじまる

夏が兆してきた。

ある夜、拙宅の廊下でゴキブリがひっくり返ってもがいている。ゴキブリならば瞬時に体勢を立て直して隠れるであろうに、さては面妖な....。観察するとゴキブリではないようだ。紙をそっと差し出すと、掴まって這い上がってきた。コクワガタである。





どこから入り込んだものか、叩き潰さずに良かった。窓を開け、植え込みの小枝に逃がしてあげる。五月も末ともなれば、コクワガタが出始めるのか。いよいよ爛漫の春から初夏へと移ろうのだ。








翌朝、いつもの休日のようにどんぶりに飯を盛りいただく。肉豆腐の残りだったので自家製紅生姜が良く合う。これは梅干し作りの副産物、梅酢に新生姜を漬け込んだだけのものだ。今年もたくさん漬け込もう、そう思った瞬間に、昨夜のコクワガタはやはり、夏の訪れを告げる使者だったのだと思えてくる。







こどもたちにカレーを作ってやろうと買い物に出かける。休日のカレーは朝から仕込んで夕食に味わう。家人が作る時は豚小間肉だが、わたしは国産牛を使う。家長の威厳というものはカネで守るのである

売り場に、今年初めての梅、長野県産の青い小梅が売られていた。


やはり、コクワガタが夏を連れてきたのだ。1kgを求めて帰る。






『梅をパリット漬ける素』を初めて使用する。





青い小梅たちを洗って成り口のヘタを取り去り、風に当てる。中央奥の梅の樹は、昨秋に強めの剪定を施したので着果は見られない。来年のお楽しみである。




 

これは干さずに、固い実のまま仕上げる予定だ。しばらくのちに赤紫蘇を揉み込んで紅に染め上げ、冷蔵庫で保存する。夏から秋に掛けて、部活から帰ってきた子どもたちが口に放り込む、そんな場面を思い描いている。平成最後となる梅仕事は、こうして穏やかにはじまりを告げ、満ちて行くのだろう。ことし、どんな梅たちと出会えるだろうか。







2018年5月20日日曜日

胃袋と風景


拙宅の辺りでも田植えが始まっている。
おや、いまごろ?
そうなのである。気候とか品種ごとに適した時期というのがあるのだろうが、おおむね今頃である。拙宅の北側に広がる一面の田んぼに、半分だけ水が入る。半分というのは、毎年コメを植え付けるのではなく、コメを休んで蕎麦、麦の栽培を挟むからだ。1970年頃から「コメ余り」などという罰当たりな状況が続いており、本気を出してコメを作ってはいけないという、ニッポンの水稲栽培史の中でも異常事態と言わざるを得ない。







これは5月11日、安曇野市豊科の田んぼから常念への落日を眺めているところ。古代、北九州の海人族であった安曇族がこの安曇野を拓き、いつの間にか消え去った。彼らもコメを育てて食糧としたのだろう。いまとは品種が異なるだろうから事情は違えど、たとえば常念に落日を見るころを田植えの日としたのだろうか。





田んぼに水を入れれば、田んぼから落ちて来る水もある。そのために近所の小川は泥色に濁る。ここはあとひと月ほどすると蛍が舞うところで、シジミやカワニナが棲む澄んだ流れである。そしてこの濁りも、田を潤す水ゆえなのだから、これはこれで美しい季節の風景なのだ。

蛍が舞い始めると、梅干し作りの支度が始まるのでわたしは落ち着かなくなる。






駆け足でわたしの傍らを通り過ぎて行く季節の移ろいのはざまから、また恵みを頂く。いただいた恵みは天ぷらと言う美しい料理に昇華する。こういうのは酒が捗り過ぎて困る。






大酒した翌朝は、わたしは却って空腹を覚える。前夜に散々飲み喰いしたはずなのに、胃袋が欲するのである。残りの天ぷらをトースターに放り込み、どんぶりに飯を盛る。めしは出来るだけ高く盛りたいが、限度もある。一合半ぐらいで我慢をして、そこへ温めた天ぷらを乗せ、甘めの蕎麦つゆを垂らし、いただくのだ。

ご飯の甘さを噛み締めながら、豊葦原瑞穂の国に生まれ育ったことに感謝する。この星に米ある限り、わたしはどんぶりを手放すまい、そう誓う。加えてコシアブラもタラノメも米の美味さを「これでもか」と引き立てる。やはり一合半では足りず、ごはんをそっと追加する。





書斎の前の一輪草が満開を迎えた。昨夜もウイスキーが過ぎて寝過ごしたのである。昼ちかくに目覚め飯の支度をする。家族は誰も居ない。炊飯器のふたを開ける。保温釜がない。シンクに放り込まれている。部活に行った坊主たちが残らず食べて行ったのだ。






わたしはやむなく、300グラムのスパゲッティーニを茹でた。ミドルが三人前を食するというのも如何なものか、という思いが横切ったのだが、空腹には四の五の言っていられないのだ。

「米」を食することが出来なかった一抹の寂しさも、胃袋を満たしてしまえば「知るか」である。





うむ。米ばかりを作ってる訳にはいかぬのである。麦畑の青きそよぎも美しいものだ。今朝はコメではなくムギを食した後ろめたさを、麦畑の風景を前にぬぐい去ろうとしているのだ。

最近の考古学研究の成果を眺めると、水稲栽培以前、縄文時代の中頃には、大豆やエゴマといった雑穀栽培の痕跡が発見されていると聞く。それも、大粒のやつだけを選んで増やした形跡が見られるとか、なかなか有能なのである。三内丸山の縄文人も、栗を植えて利用するにあたって実の大きい樹から次の世代を選んだらしい。「栽培」と「農耕」の境界線がどこにあるかは知らぬが、われらが先祖たちは原始的な「採集」だけに依存していた訳でもなさそうである。

博物館などで見かける縄文のムラの復元ジオラマやイラストレーションには、住居の周りに森が広がっていることが多い。だがもし上述のように、縄文の人々が植物栽培を盛んに行っていたとするならば、ムラの一角には雑穀畑のような空間が広がっていたはずだ。森の中のムラではなく、こんにちの山村のような、明るく開けたくらしの風景があったのかもしれない。



風景は、胃袋に依存する。胃袋が欲する食材が変われば、風景も変化する。百年後、あるいは一万年後に、わたしたちの子孫は何を食べて暮らしているのだろうか。そのために、風景はどのように変わって行くのだろうか。思い巡らそうとして、朝飯がまだだったことに気付かされる。せめて、美しき田園の風景が永らえるよう、どんぶりに高々と飯を盛ろう。















2018年5月13日日曜日

御射山幻視行

序章〜奥宮の鎮まる森



この森に足を踏み入れるのは初めてであった。


浅間温泉から美ヶ原まで上り詰める林道から分かれて、細い杣道が通じている。国土地理院の地形図にも実線が描かれていて、女鳥羽川源流の山腹を巻きながら深い深い森の奥の「ある地点」で終わる。ただそれだけのことなのだが、わたしの興味を引きつけたのは「ある地点」に鳥居の記号が示されていることだった。こんな山深いところに神社が? いった誰が詣るのだろう。それは地形図を眺めるたびに呼び起こされる想念だった。


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5月のある日、わたしは休みを得て杣道の起点に立った。背後を、美ヶ原へ通じる二車線の舗装道路を車列が飛ばしていく。閂が掛けられた鉄のゲートをぎぃぎぃ鳴らして開き、また閉めた。杣道は未舗装路ながら、山菜採りの軽トラックなどが入るのだろうか、轍は深かった。




ほぼ水平に1時間ほどは歩いただろうか。作業小屋のような建家がある。鳥居の記号へは右に折れるはずだ。植林された落葉松の森から、白樺主体の明るい森に変わった。地形はなだらかで、幕営したくなるような平地もある。

わたしはアイフォーンの画面に表示された地形図にトラックログを刻みながら、鳥居の記号の場所に立った。そこは小ピークを成していて、いかにもお社にふさわしい場所であった。しかし、鳥居も社殿も無く、コンクリの枡と排気塔のようなものが埋設されているだけだった。





「ふむ。やはり既に廃絶されているのか」

こんな山奥である。近くを美ヶ原林道が通るとはいえ、人里からは隔絶されている。容易に参詣もままならぬところに、神を鎮めておけるはずもない。里のお宮に合祀されてしまったのであろう。わたしは、神社なんかとっくの昔に無くなっていた、という結論を得て、こんな奥地まで訪ねて来たことが莫迦らしくも思えていた。けれど気持ちの良い森はわたしを上機嫌にさせ、尾根伝いに歩かせることを決めさせた。背中のザックには珈琲道具を携えている。見晴らしの良いところで食事と珈琲を愉しもう。

わたしは気持ちの良い白樺の森をしばらく歩きながら、小鳥のさえずりを聴いていた。薮もなく歩きやすい。このまま尾根をまっすぐに登り詰めれば車道に出ることを予想していた。そのまま車道を下ろうか。やがてバイクを置いた地点に着くだろう。その時だった。






正面から顔面に突きを入れられたぐらいに衝撃を受けた。近頃はこういった場面に出喰わすことが多い。神さまはいきなり正面から現れるのだ。

地形図が誤っているのか、あるいはお社が遷されたのか、それは解らない。しかしこうして目の前に鳥居を見て、その奥に社殿がおわすことが予想されれば、頭を垂れるしかなかった。それから鳥居をくぐり、斜面を登っていった。その先には、荒縄で巡らされた結界の中に、神さまがおわした。





御射(みさ)神社、のっこば奥宮。のっこばとは乗越場であろうか、浅間温泉の御射神社春宮、三才山の御射神社秋宮の奥宮であった。積年、地形図のあの鳥居記号は、と疑問に思っていたその「なにごと」とは、何度もお詣りしている御射神社の山のお宮だったのだ。




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浅間温泉、御射神社春宮




御射神社春宮。

以前に暮らした浅間温泉町会を含む、本郷地区の氏神様である。10月の松明祭りで知られる。夕闇の中、稲わらで作られた巨大な松明が温泉街を引き回され、御射神社春宮まで運ばれるのである。翌日には「押鉾」と呼ばれる神輿の渡御がある。まだ赤ん坊だった長男坊主が、押鉾の上に飾られたすすきの穂の束が揺れるのを見て、腕を伸ばして触ろうとしたことを思い出す。

古くは山の神を祀っていたが、14世紀頃に地頭の赤沢氏が諏訪より御射山社を招いたと案内板などに書かれている。赤沢氏という氏族は、のちに松本城主にもなった小笠原家の庶流の家柄で、当地に居館を構えたらしい。本郷小学校の敷地だったか温泉会館だったかにもそんな案内板があった。

古くは山の神を?

諏訪から招いた御射山社が、そもそも諏訪明神の奥社、山の神のような性格を帯びている。その祭礼のことを調べると、狩りの神事や武芸の奉納が散見される。こうしたことから中世の武家氏族にとっては守護神として相応しく思われたのだろう。勧請の背景には原初の山の神との親和性の良さもあったに違いない。





春宮の拝殿。





春宮本殿。





春宮境内の石祠。このほかにも道祖神などが祀られている。浅間温泉に暮らした頃、ベビーカーを押して春宮への坂道を上ったものだ。そして赤い鳥居を見つけると、赤ちゃんだった長男が振り返ってにやりとする。そのかつての赤ちゃんは、いま二階の自室でThe Clashのアルバム『London Calling』を聴いている。この書斎から無断で持ち出したものだ。






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三才山、御射神社秋宮



御射神社秋宮。
春宮の松明祭りで、里におわした神さまは山に帰られる。田んぼを守って恵みをもたらし、山に帰っては翌春まで休まれるのか。稲わらの松明を焼く煙は、虫追いの役割を果たす。厄災を煙に乗せて追い払うのだ。同時に、田の神も煙とともに山に帰っていく。山に帰るには山にもお社が必要になる。そのお社がここ「秋宮」で、かつては春宮から秋宮へと押鉾の渡御があったと聞く。これらは浅間温泉に暮らしていた期間に見聞きしたことなので、誤りもあるかもしれない。







秋宮は、どちらかというと三才山の鎮守の趣である。三才山(みさやま)とは本郷地区において、女鳥羽川の上流にあたる土地の呼び名である。そしてその由来は、御射神社のおわす御射山の「みさやま」にほかならない。御射山の地名については、諏訪明神の奥社としての御射山社のおわすところ、という一般名詞で全国各地にある。煩雑を避けるため本稿では諏訪明神とのかかわりには、これ以上触れずにおこう。








拝殿前に、四つの本殿について説明がある。松本城の鬼門の守り、として崇敬された云々。






御射神社秋宮を訪れると、春宮よりいっそう山深く入った実感を伴う。三才山のさらに奥の戸谷峰、烏帽子岩などを歩いた帰りに必ず寄るのであるが、その理由が解った。社殿が北西を向いておられるのだ。鳥居から社殿には参道を南東に進む。南東を向いたまま柏手を打つ。背後の山が陽光を遮るために、社叢は暗く樹影が深いのだ。






しかしなぜ、社殿は北西を向くのか。参拝者の視線が向かう南東に、さらに何ごとかがおわすのだろうか。たとえば御神体とされる山がある、とかである。境内の案内板に拠ると、秋宮は「烏帽子の前宮」とある。




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烏帽子岩


烏帽子とは女鳥羽川源流に聳えるピナクル『烏帽子岩』で、秋宮から8kmほど東の尾根上に突き出している。古くから烏帽子大権現として崇められてきた。



これは女鳥羽川対岸を走る美ヶ原林道から。






松本・上田市境を通る蝶ケ原林道から間近に眺める烏帽子。





秋宮が烏帽子の前宮であるならば、烏帽子岩を遥拝する社殿の配置なら理解できる。しかし烏帽子岩はほぼ真東に近い。はたして、秋宮の南東方向に、何があるのか。長らくの疑問であった。






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結章〜遥拝の彼方に

地形図に記された、山奥の鳥居記号。そこは御射神社春宮・秋宮の奥社だった。その地に足を運んでみて、案内板までが設置され、わたしはひとつの謎を解くことが叶った。




『のっこば奥宮』の案内板の内容を記載する。

のっこば奥宮
御射神社の烏帽子岩に次ぐ第二の奥宮。建武時代(1334-5)赤沢氏の頃から神前に供える鹿の狩りをした場所で、仮寝の小屋の屋根や壁は穂の出たすすきで作った(穂屋)。現在も祭典にはここからすすきを取り、箸を作り、また穂をおしぼこにつけて回り各戸に配る。
平成9年11月 本郷地区景観整備委員会



そして、秋宮と『のっこば奥宮』の両方を訪れて初めて、ひとつの事柄が合致したのだ。



丸数字で4つの祭祀施設の場所を示す。丸にしなきゃ良かった。

 1=御射神社春宮
 2=御射神社秋宮
 3=のっこば奥宮
 4=烏帽子岩

この段階で、先に書いた疑問のひとつが解けた。

御射神社秋宮の鳥居の前に立って社殿を眺めると、南東の方角を向く。その視線の先には、『のっこば奥宮』が鎮まっていたのだ。上図の2-3のラインがこれを示している。また奥宮も秋宮の社殿と同じく北西を向いている。秋宮の鳥居から参道、社殿の配置がそのまま奥宮につながっているということは、奥宮の重要性を物語っているように思えてならない。上に転記した『のっこば奥宮』の案内板にあった「神事のための狩りの場所」という説明よりも、もっと深い理由があるのではないか、わたしはそう考えた。たとえば、最初に山の神が降臨された場所、というようなことだ。単なる位置関係の問題だけでは済まない、祭祀を行う上での理由である。

ここまできてわたしは、何となく戯れに、上図の2-3のラインを右下方向に引き延ばしてみた。スマートフォンの画面では見にくいかもしれない。




まさか、そこまでは考え過ぎであろうか。

御射神社秋宮の鳥居の前に立つ。視線は社殿を見ている。社殿の彼方には、山奥深くに『のっこば奥宮』が鎮まる。奥宮の社殿はこちらを向いている。そして奥宮の彼方には、美ヶ原の高原台地が広がり、王ヶ鼻・王ヶ頭が直線上に位置する。そして更なる先に、美しい円錐形の山体を持つ、蓼科山が聳えている....。

近隣の美ヶ原、王ヶ鼻・王ヶ頭あたりまでは妥当性があるだろう。とはいえ『のっこば奥宮』のある北麓から眺める美ヶ原は、特徴付けしにくい高原様にしか見えず、むしろ凡庸な山容である。あるいはそこが太古の人々の精神性に響いたのであろうか。ピークの連なりではなく広大無辺な天空の台地が、摩訶不思議な「テーブルマウンテン」として特殊性を帯びて受け止められたのかもしれない。事実、こんにちでも御嶽講関連の石像物が立ち並び、山岳信仰の祭祀の歴史が染み付いている場所だ。





蓼科山までラインを伸ばすことは、考え過ぎであろうか。

『のっこば奥宮』の向こうに美ヶ原を遥拝したことは十分に考えられる。同じ山塊である。その先に、蓼科山までをも同一ライン上に確認してしまうと、無視することも出来ない。上の写真のように、美ヶ原からは八ヶ岳の左に連なる格好で蓼科山の端正な姿が容易に望まれる。高原台地から望まれる蓼科のシルエットは、いっそうの神秘をかき立てたはずだ。





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古来、ひとは山を神々の世界、あるいは死者祖霊が帰っていく場所だと考えていた。様々な理由があるだろう。そしてその理由のひとつに、わたしはこう考えている。

雲である。

その巨大な山体を、一天俄かにかき曇ったと思えば、山は姿を隠すのである。例えば拙宅のこのデスクから、晴れた日ならば戸谷峰1,629mが見えている。それが、今日はあいにくの雨で見えはしない。その巨大な姿を自在に顕わしたり隠したりする能力をもって、山とはとてつもなく凄い力を備えている。風景を瞬く間に変えてしまうことが出来るのである。科学的知見を持たなかった太古の人々には、神威とはまさにこれだろう。さらに、山を隠した雲は雨となって大地を潤す。すべて恵みである。

山は、神そのものだった。








信州ご出身の歴史研究家でハッシー27さんという方が、日本中の神社仏閣遺跡などを訪ね歩いて記事にしておられる。>>『ハッシー27のブログ』
たとえば神社であれば祭神の考察から創建に関わった古代氏族の趨勢、古今の地名や地理的な結びつきなどから、歴史の地層に埋もれた様々な事柄を解き明かしてくれる、とてもエキサイティングなサイトをご紹介したい。このサイトに御射神社探訪の記事があるのでご参照されたし。わたしの勝手な思い巡らせとは異なって、奥深い古代史理解のベースの上で展開される、御射神社のあれこれである。




2018年5月6日日曜日

ねんぼろの春、採集の日。


今年もこの季節が巡ってきた。
ねんぼろ(のびる)の玉が太ってきた頃だろう。

ねんぼろは、白い球根の部分を刻んで味噌に混ぜ込む。これをどんぶりめしに添える。今年は地元の「丸正」という味噌屋の無添加味噌を使った。

うむ、捗る捗る。日本人の「コメ離れ」みたいなことが指摘されるが、それは「ねんぼろ味噌」の普及を怠ったからであろう。




家から少し歩いた里山の森だ。春の森の恵みたちが待っている。





小径には蕗も出ている。すこし分けてもらおう。





独活。伸び過ぎてるが、茎はまだ柔らかいだろう、少し掘って帰ろう。








ねんぼろの大群落を見つけた。すごい、ここだけで一年分が採れる。スコップでごっそり掘るのではなく、群落の混んでいるところから太い茎を選んで抜き上げる。こうして間引いていくと群落はますます勢いを増し、広がる。来年再来年とたのしみは続いていく。





こういう太いのだけを選んで抜いていく。





これが抜き上げたねんぼろ。大きいね。





この日、2kgぐらいのねんぼろを採った。





玉葱と書けば大げさではあるが、大きなもので3センチ。右のボウルの小さいのは刻んで味噌に混ぜ込む。






大きなねんぼろの玉は、味噌に「漬けて」おく。あくまで主役はねんぼろ。どんな味わいを愉しめるのだろう。





独活も下拵えしよう。皮はきんぴらに、茎の柔らかいところは生のまま酢みそで味わおう。




下拵えした独活の茎。水に漬けておいたが灰汁はほとんど出ていない。食卓に酢味噌と和えて出したら、婆さまがぜんぶ平らげてしまった。




ふきのとうに始まって、たらの芽、こごみ、ぜんまい、行者にんにく、そしてこしあぶらと味わってきた信州の春の味覚である。家から歩いて出かけられるほどの里山の恵みである。ほろ苦さと甘さと、独特の香りや味わいに、この季節との再会を喜ぶ。春夏秋冬のある列島に生まれ育ったことを感謝せねばなるまい。山の神さま、ありがとう。