2020年3月29日日曜日

ビーナスに会う

県立歴史館へ


山道を降りて行くと、梢越しに長野県立歴史館の建家が見え隠れしている。こころなしか急ぎ足になってきたわたしは、転びそうになりながら「あわてるな!」と自らに言い聞かせる。鼓動が激しいのは運動のせいじゃないことは解っていた。手のひらからは異常なまでの発汗。喉が渇く。要するにわたしはパニック直前の状態だった。ビーナスに会える。もうすぐ会える。歴史館の裏手の田んぼに出た。刈り入れの終わった田んぼを突っ切ると、歴史館の敷地に入る。駐車場を駈けるように抜けて右手に回り込むと、エントランスがあった。まるで信じられない。嘘だ。夢だ。現実ではないような浮遊感に包まれながら、写真を一枚だけ、撮った。








受付では不審者と思われたかもしれない。もの凄い形相をしていたかもしれない。順路、と書かれた案内板も、ほかの入館者もが邪魔臭く思えた。早く会いたい。この目で見たい。もの凄く長い時間がかかったように思えたけれど、数分後、わたしは展示室で彼女と対面していた。



冷静を装って、ポケットに両手を突っ込んで、あまり関心がないような、誰かに連れてこられて仕方なく佇んでいるような態度を装っていた。薄暗い展示室の片隅でサングラスをかけたまま、表情を隠していた。ふん、たかがおおむかしの土人形だろ。しかし、涙をにじませた眼は充血し、呼吸は荒く、肩で息をしていた。展示ケースに近づくまいと四肢をこわばらせていた。間近に見てしまえばガラスケースに顔を貼付けてしまうだろう。





ビーナスとの対面


彼女は、『縄文のビーナス』は、高貴で、美しく、可憐で、純粋で、混沌だった。わたしは細部の、たとえば彼女を構成する粘土だった珪酸質の粒子のひと粒までを見たかった。


激しい羞恥心を覚えていた。彼女は衣類をまとっておらず、ふくよかな身体をさらけ出していた。わたしは困惑しながら、感動と衝撃に揺さぶられて、究極の官能に包まれていた。彼女は美しすぎて、眩しいばかりだった。四つの灯りが彼女を照らしていた。正確にはもうひとつ天井にも。凄い。身体の輪郭線が輝いている。塗り込められた雲母の破片が、照明を跳ね返す。そのおぼろで鮮やかな、喩え様のないフォルムを目の当たりにしている。信じられない。彼女が目の前に居る。


もう、わたしは、ぼろぼろだった。


何かを目にして、こんなに打ちのめされたのは、初めての体験だった。








旅の朝


その朝、わたしは松本の自宅を出てバスに乗り、松本駅からは鉄路の響きを楽しみながらの小さな旅となった。


快晴。北アルプスは常念北面と大天井に雪。安曇野からトンネルをいくつも抜けて善光寺平に入り、篠ノ井でしなの鉄道に乗り換える。






初めて乗車するしなの鉄道。ふた駅先の屋代までの区間をたのしむ。





台風19号で大暴れした千曲川の鉄橋を渡る。河川敷は茶色の泥と砂で覆い尽くされていたが、このあたりでは洪水被害を免れたようだ。





屋代駅からは公式の案内にあるルートを歩かず、山越えの小径を選んだ。地形図によると、神社の境内、墓地と抜けていくと長野県立歴史館まで通じていることになっている。この神社の境内へすすみ、その奥の水道施設の向こうに歴史館への道があるはずだ。





こんな道をしばらく拾う。いくつかのターンを過ぎて、歴史館の屋根が見えた。






このとき、わたしは前述したような、パニック手前の状態だった。降りた所がゲートで塞がれていた。使われていない道のようだ。これが更なる混乱をもたらした。




『縄文のビーナス』との対話

彼女に逢ったのは、この時が初めてではなかった。数年前、ある博物館で会って以来、何度かの邂逅があった。しかしそれは、すべてコピー品であった。レプリカントではない。


コピー品と書いた。


その時は何も理由が解らなかったのだが、彼女、茅野市の棚畑遺跡から掘り出されて国の重要文化財を経、現在は『土偶』として国宝指定を受けている『縄文のビーナス』にはコピー品がいくつも存在する。コピー品という書き方以外に言葉が浮かばないのだが、大昔、縄文のビーナスが棚畑のムラで祀られていた時代に、彼女に出会った人々が「真似て作った」としか考えられない、同じ顔、同じ表情の土偶や土器の装飾が複数存在するのだ。

岡谷 顔面把手土器、で検索すると表示される有名な土器がある。土器の縁に、彼女が居る。ほかにも、八ヶ岳を中心とする中央高地で見つかったいくつかの土偶が、彼女と同じ顔立ちをしている。小動物を思わせるような、「ひょ」と発音しているような口元。どんぐり型のいたずらっぽい眼。何度か訪れた近隣の博物館の展示や、縄文時代を扱ったムック本などで出会う表情、顔立ちなのだ。


あなたは、なにものなのか?


わたしは何年も前から彼女に問うている。あなたを真似た土偶や土器の装飾がたくさんある。真似られるほどに崇められたのであろうか。同じ顔を複製する必要があるほど深く祈られたのだろうか。他の土偶たちとは異なる特別な埋納がなされていたと知られている。あなたは一体なにものなのか。


塩尻の平出博物館において、縄文時代の顔の表現をテーマとした展示が行われたのは三年ほど前だっただろうか。わたしはこの展示の空間で、彼女からのメッセージを受け取った。


 いきろ


それは限りなくシンプルなメッセージだった。受け取った瞬間は、シンプル過ぎて内容が判らず、帰宅してから解読できた、そんなメッセージだった。いきろ、というのはわたしを励ましているのではない。親が子を想う感情、次の世代に託すいのちのリレーのことを指している。はるか数千年前の、この信州の高地に暮らした祖先たちが(たぶん今よりもすこし)困難な時代を生き延びながら発した、祈りと願いなのだ。
















いきろ。

三年ほど前に受け取った、遠い祖先たちの願いをあらためて受け止めながら、わたしは長野県立歴史館の展示室を後にした。展示は、国宝に指定されている五体の土偶を一堂に集めて鑑賞することが出来る、短期間ながら豪華極まりない企画であった。もちろんわたしは他の土偶の前にも立った。立って眺めて考えて、これを何回も繰り返していた。展示室に三時間ほど過ごしたぐらいだ。けれどここでは他の土偶との対面に付いては書かないでおこう。





いきる




屋代の街を少し歩いた。激しい空腹が突き上げていた。胃袋がよじれるぐらいに食べ物を欲していた。実は、ポケットにはウイスキーの小瓶があった。素面で『縄文のビーナス』に会う自信がなかったため、入館前に「きゅっ」と飲ろうと忍ばせてきたのだ。ところが歴史館の建物が見えた時には錯乱状態で、ポケットのウイスキーを取り出す余裕すらなかったのだ。







どのタイミングで小瓶のキャップを明けようか、考えていた。しかし午後早い路上には親子連れの姿があったりで遠慮がある。アメリカ映画で茶色い紙袋に隠した瓶を呷る場面が思い出された。あれにはこんな意味があったのだなと気付き、紙袋の無い自分を呪った。わたしは疲れていた。経験は無いが、フルマラソンを走り切ったぐらいに疲れ切っていた。何かを食べる必要があった。それ以上にウイスキーを胃袋に垂らしてやりたかった。

ラーメン屋でも良い、酒を飲ませる店を探した。ところがランチタイムを過ぎてどこもやっていない。仕方なくわたしは屋代駅で切符を買い求め、ふたつ先の篠ノ井まで移動することに決めた。ホームには人影もまばらだった。誰かが駅舎のピアノを弾いていた。すばらしい演奏だった。ベンチに座ったわたしは、他人の視線をはばかることなく、小瓶を取り出し、満面の笑みを浮かべていただろう、ぱちぷちっという音まで楽しみながらキャップを明け、続けて小瓶を口元に運び、口腔に広がる『角』の香りを愉しんだ。ジャズの名曲が次々と流れる。わたしは、ウイスキーとジャズと堪能しながら、ビーナスの姿を思い出していた。






篠ノ井駅で降りたわたしは、駅前に酒場を見つけた。まったくすぐれて正しい酒場、という概念があって、それは遅くとも昼には店を開ける酒場を指す。篠ノ井駅東口の『江戸屋』は完全に正しい酒場で、この暖簾をくぐるに躊躇する理由を探すことに困難を覚えた。







正しい酒場には、正しいモツ煮込みがある。





若い頃に、中原中也の詩集を読んでいた。彼がいつも突きつけて来るのは、悔恨だ。過ぎ去ったあの時に、何故そうしなかったのか、あるいは成してしまったのかを延々と問う。問いは思考に向かうのではなく存在に、たましいに、肉体に突き刺さって来る。刺さるだけでなく、繰り返しえぐり取っておのれを痛めつける。わたしはこの日、「薬局にない胃腸薬」をなぜ試みなかったのか、いまでも悔やんで悔やみきれない。よごれっちまったかなしみは、たとえばきつねにのかわごろも....






いきろ。いきろ。遠い祖先からのメッセージがリフレインしている。ビーナスよ、あなたが願いを聞き届けてきた年月はいかほどなのか。あなたに祈りを捧げた人はどれほどなのか。










ハイボールを何杯飲んだか。千鳥足で松本行きの電車に乗る。田毎の月で知られる姨捨の駅で、先ほどまで過ごした屋代と篠ノ井のまちを眺める。ポケットの小瓶が残り少なくなってきた。






松本駅に降り立ったわたしは、駅前にいくらでもある酒場ではなく、中町という蔵造りの街並みの『中西屋本店』に急いだ。ここは正午から夕方六時まで酒を飲ませる正しい「酒屋」で、居酒屋ではない。顔なじみたちと莫迦話をしながら時を過ごし、さらに何軒かハシゴして帰る。




最終のバスで帰ろうと、人気の無いバス停のベンチに座った。ひんやりとした感触に戸惑いながら、背中を預けた。ふいに、おかあさん、という語彙が出てきてしまって、困惑した。わたしはすでに母を亡くしている。けれどこの時浮かんだのは、実の母ではなく縄文のビーナスだった。誰も居ないバス停でわたしは少しだけ泣いた。








2020年3月15日日曜日

レザーワッシャーハンドル、4本目




手仕事の備忘録としてここに残しておく。

レザーワッシャーを積層して北欧様式のブレードと組み合わせたプーッコが4本を数えた。工程は、北欧やロシアのYou Tuberを漁って作り方を調べるところから始まる。わたしはロシア語も北欧諸語もヒアリングできないからテロップ付きの映像を探す。白状すると英語も、家人がわめいている言語も聴き取れない。テロップがあれば翻訳を駆使してそれらしい解説を得る。あるいはbladeforums.comというサイトの投稿を読む。じつに毎回手探りで素材、手順、メソッドを考えながらの試行錯誤である。結果、手応えを感じることが出来た。今回の一本がわたしなりの標準的な作り方を示すものとなるだろうから、いくつかのメモを書き留めよう。






フロントプレートとエンドのブラスには、またしてもフィンランドのプーッコメーカーであるOsmo先生に貴重な知見をいただいた。Osmoさんはこのサイトで活躍しておられてYou TubeでもTipsを披露しておられる神さまのようなお方だ。

タングとのフィッティングを追求すると、フロントプレートを裏から叩く、という処理が重要になる。加えて今作は鎚目を演出とした。また、エンドのタングホールは皿穴としておくことでより大きなカシメ強度が得られることも学んだ。






積層を終えたグルーイング中のプーッコ。左と中のは加工を放置しているハードウッドのハンドルのもの。チンチャンという樹種が硬すぎてなかなか削れないのだ。




#60のベルトで成形中の様子。ざっくりと4面を出していく。





その後、何となくハンドルっぽい形状に削りながら手のひらで撫で回す。あと1ミリ、というところで番手を上げる。





途中の写真がないが、#120、#240と進めてきた。ここで形状を満足のゆく状態に仕上げておく。#400に進んだところが上に掲げた写真。ここからは形状ではなく質感を求めての作業となる。つまり、滑らかさだ。





#600での磨きを終えたところ。深い艶、光沢が出てきた。





次に、ボール盤にセットしたナイロンディスクで磨く。サンドペーパーの#1000よりもこの方が美しい表面を得ることが出来た。





クラフト社の『トコノール』を薄く塗って、ガラス瓶で擦った後の様子。





ほれぼれするような滑らかさ、吸い付くような手触り、たまらん。

ブレードは、Lauriのカーボンスチール、69ミリ。ハンドルに着手する前にベベル面をミラーフィニッシュとしている。簡潔に書くと、#400、#800、#1500、#2000とサンドペーパーで下地を出して、白棒、青棒を施してある。わたしが仕上げるブレードは、ここまでで良い。







2020年3月8日日曜日

炭火の上の格闘技

HICHIRIN 2020



リングは、8インチx8インチ。ルールもない無制限デスマッチ。




ラウンド1。対戦相手は、シロ・シオ(ランキング8位)。





視覚嗅覚聴覚が何度もキックを喰らう。ダウンしそうになる直前で黒ラベルのドーピング。この一本で絶望的なまでの死地を脱することが出来た。





シロ・シオは、8位ながらどこまでも強い。打撃、蹴り、そして寝技、締め。わたしを圧倒する。






ラウンド2。わたしに襲いかかる、モモ・タレ(ランキング4階級で王者)。どんどん追いつめられて行くわたし。ギブアップを考える。リングに上がったことを後悔している。むかし妙義でもあった。明神主峰の下りでもあった。春の霞沢岳K1の登りでもあった。来たことを後悔する、そんな打撃の応報。実際はテンプルも顎へのフックも貰うばっかり。深まって行くダメージ。






モモ・タレの必殺技、タレコガシカオール。鼻孔が破壊される。脳髄が悲鳴を上げている。その強さ、もう戦意喪失。圧倒的な攻撃力。絶対的な防御力。スピード、技、パワー。勝てるはずがない。






ほら、勝てるはずがない。






焼酎のお湯割りに自家製梅干しと梅酢を少し。これでダウンを免れているが時間の問題。わたしに襲いかかる打撃、ローキック、ハイキッーック。呼吸すら許されない緊張の連続。反撃だ。かぶりつく。ぐぬぬぬぬ。あぐうううっ。口中に広がる旨味と香ばしさ。胃に降りていくモモ・タレが反撃してきた。内側からわたしのストマックを襲う。そして最後に締め上げられて、マットに沈むー







豚モツを炊く



週末、わたしは日中をほぼ台所に過ごす。

平日に出来ないこと。朝6時に温泉場の脱衣所に居ること以外に、こんなことだ。酒の肴を仕込むこと。朝からビアを呷ること。昼前にボルドーの栓を抜くこと。ランチをハイボールで愉しむこと。午後早いのにモルトを嗅ぐこと。夕方前だというのに空になったボトルを片付けること。熱燗を流し込みながら家族の夕食をこしらえること。どれもこれも、すばらしい習慣なのだ。

その週末は、豚の白モツを炊くことにした。





開店を待って肉売り場に急ぐ。茹でた白モツふたパックと茸を買い求める。白モツは、まだ脂身を抱き込んでいるのでこれを片付けるところから始まる。





ボウルの中のが脂。これを一緒に炊いた方が持ち味というか、モツ本来の味わいなのだろう。だがミドルの胃袋にこれだけの脂は、重い。





さて一度、水から茹でる。沸騰したら10分ぐらいだろうか、薄めの水割りを二杯飲むぐらいの時間だ。茹でこぼしてモツを洗う。





二度目の茹で上げ。今度はさっとで良い。葱の青いところと生姜の欠片が少し。





湯を棄てて水気を切ったら今度は炊く。




根菜、茸なんかを一緒に鍋へ。水からことこと炊いていく。根菜の灰汁が少し出るくらいで、モツの脂もあまり残っていない。酒を二合注いだだけで味付けは、まだ。

ことこと炊いて、砂糖、味醂を加える。





弱火でさらに一時間ぐらいは炊いただろうか。火を消して少し冷まし、白出汁と醤油を少し、そして本命の味噌を溶く。





ただの味噌ではないのだ。2015年、この台所で仕込んだ青唐辛子味噌。青唐辛子は刻んで油で炒め、これを生味噌に混ぜ込んである。そのまま数年、野菜室の底で眠り続けていたものだ。目覚めよ。





モツの脂を取り除いた分、淡白な味わいとなる。しかし根菜のほろほろとした旨味と長期熟成された青唐辛子味噌の深みが、響き合う。奏で合う。酒が果てしなく消えてゆく。




2020年3月2日月曜日

青葱は食卓の主役である。


2020年2月28日金曜、二十一時過ぎ。いつもならその男は眠りに就いている時刻であるが、その日は夜食を拵えている。先日に書いた、中華丼の素を焼きそば麺にかけたひと皿である。半熟玉子の上に降りかけられた白胡椒は、北アルプスの稜線の雪のように美しい。しかし何よりも眼を引くのは、はつらつとした青葱の姿である。






翌日の2月29日土曜日、その男、娘のために鶏そぼろをつくり、ちょいと分けてもらったそぼろへ出汁をかけ回し、ぬくめた絹豆腐を盛った。そこへ青葱があざやかなまでに彩り堂々として、豆腐とひき肉を圧倒している。昼前というのにマグは濃いめの水割りで満たされているようだ。





3月1日日曜。こどもたちの朝食は、そぼろたまごご飯である。紅いラー油のアクセントが霞んでしまうほど凛々しく君臨する、青葱。存在感は偉大である。





昼を迎えたこどもたちに供されたのは、炙った手羽先とブロッコリーを添えたカレーうどん。ここでもやはり、青葱が高らかに雄叫びをあげている。





そして宵の酒肴のひととき、男は煮込んだ白モツと愛を交わし合っていた。その白モツたちを蹴散らすかのごとく舞い降りたのは、やはり青き葱たち。





その夜、締めにラーメンを食しているその男、もちろん銘柄はハウス食品の『うまかっちゃん』にほかならない。自作の鶏ハムが健気に添えられ、すり胡麻をたっぷりと振りかけてはいるが、ここでも青葱の存在感は際立っている。







在宅で過ごす2月2日月曜の昼めし。その男の食卓には、あの白モツ。食卓ではなかった。キッチンのガス台前に陣取って、煮炊きをしながら呑んでいる。平日なのにどうせ仕事なんかしないのだからと、朝のうちからチューハイを傾け、大雪渓生酒を一本空けているのだ。濃いめの水割りに切り替わるのに、多くの時を必要とはしないであろう。





続けて土鍋にだし汁を張り、木綿豆腐と鶏もも肉を削ぎ切りにしたものを炊いている。えも言われぬ深い香りが立ち上り、男は鶏鍋の中身を椀に盛る。やはり主役は青葱のようだ。






半月前の台所飲みの様子である。青葱をこころゆくまで愉しむには、鶏肉でも添えてやろう、という趣向であろう。