2019年1月20日日曜日

小さな土偶に会う

 

松本市南西部の中山丘陵の一角に、坪ノ内遺跡という縄文時代の集落跡がある。こう書くと少し不正確で、集落というよりごく少数の住居跡と、その割りに不釣り合いなほど大量の土器が出土した遺跡である。発掘レポートを読んで、そのような記述があった。たぶん縄文の村の住居跡は未だ埋もれたまま眠っているのだろう。

ここへ来るのは二回目で、ちょうど一年前に「松本市立考古博物館」とセットで見学している。その折の写真を眺めていたら、この遺跡から出た、ひとつの小さな土偶に、また会いたくなった。



坪ノ内遺跡の土偶は、彼女だけではない。ないが、彼女はわたしに向けて、ある明確なメッセージを発している。




少し遡る事柄に触れる。

一昨年の夏の日、わたしはとなりまちの「塩尻市平出博物館」に居た。土偶の展示を眺めていたのだ。静かな館内で、土偶のいくつかがわたしに何かを語りかけてくる。囁きのようでありながら、強い意思が込められたメッセージは、間違いなくわたしに向けられている。わたしは電波系の人間ではない。ロマンチストではあるが、不思議系、あるいはスピリチュアル系の思考や行動を採用しない。そのわたしが、ある夏の午後、五千年を隔てたメッセージに困惑していたのである。

帰宅して、ウイスキーの小瓶を忍ばせて散歩に出た。畑をふたつほど隔てた近くの果樹園に足を運ぶ。そして、熱い液体が胃の腑を焼いた瞬間だった。突然に、考え続けていたメッセージの意味が、明らかになった。古代地中海世界で哲学者が「ユーレイカ!」と叫んだ瞬間と同じことが、凡夫に過ぎぬわたしの身に起きたのである。

メッセージは、「生きろ」だった。わたしという個体の生命の存続ではなく、長い人類史で続いてきた命のリレーを求める声だったのだ。その意味と重ねられたひとつの事実は、縄文の人々は、わたし自身に繋がる、まぎれもない「ルーツ」だったのだ。

土偶が造られたのは、仮に五千年前だとしよう。

二十歳で親になるとして、250世代。授かった命が次世代の親になれる確率は、悲しくも三分の一だとしよう。つまり、五千年前から計算すれば、今わたしが生きて存在するという確率は、0.333....を250回も掛けなくてはいけない。

わたしが時おり書く、わたしの存在が奇跡であるとする根拠が、限りなくゼロに近いこの確率なのだ。




この土器を作ったのは、男だろうか?
若かったのだろうか?
子育てを楽しんでいる時だったのだろうか?
充分に食えていただろうか?
わたしのように、腰痛持ちではなかっただろうか?

これまで「縄文の人々」という捉え方はあったが、ある特定のことを為した特定の「或る人」という考え方を、わたしは持つ機会がなかった。

しかし今では、極めて親近な、祖先の一人である。泉下の両親、祖父母と同じように、懐かしい。

平出遺跡の土偶や、坪ノ内遺跡の土偶が、わたしに重要なことをふたつ、伝えてきたのである。命のリレーを繋ぐこと。そしてこの土偶を創った人々は、わたしのルーツであること。




ご先祖さん達に会えたわたしは、山麓の見晴らしが良いところに登ってみた。北アルプスが雪をまとって美しい。霞沢岳、明神に穂高、蝶や常念のピークを眺めながら、ご先祖たちも同じように「美しい」と嘆息したであろうことを確信した。





2019年1月13日日曜日

男鳥羽不動尊

わたしが棲み暮らしている町に、小さなせせらぎがある。大門沢と言って北の方の山から流れ出している。その流れを遡っていくと、谷の底にお不動さまが居られると聞いた。何度か探しに出掛けたが、その場所が判らない。月日が流れて、わたしはお不動さまのことをすっかり忘れ去っていた。



ある日のこと、ある案内板にこのお不動さまのことが書かれていた。ほう、あの辺りか、探しても見つからぬ訳だ。沢に降りるのにはあの小道、と見当を定めて出掛けてみた。拙宅から半時間ほど田園を歩き、大門沢が山あいの谷を流れる場所へと赴く。






林檎畑に分け入る細道から森へ。やがて荒れた杣道のような踏み跡を倒木を跨ぎながら進む。沢に降りたところには、踏み跡には不釣り合いな橋が掛けられていた。やはりこの奥か、間違いあるまいと橋を渡り斜面をトラバースする。すると、急斜面を背に東を向く格好でお不動さまが居られた。





年が明けて松も取れぬ頃である。正月の飾りが笹に付けられている。やはりいまでも大切にされているのだ。湧水を引いた塩ビ管は凍り付いている。これが男鳥羽の滝か。男鳥羽というのは、東の方の大村に立派なお寺があり、境内に女鳥羽の滝がある。その対を意図して名付けられたと聞いた。女鳥羽の滝の水が注ぐ川が、松本市中を流れる女鳥羽川である。一方のこちらは、ひっそりと地元の人々に奉られているばかりである。過去にわたしの探索を退けたほどの森の奥の谷の底であるから、広く知られてもいない。


お不動さまが居られるところには、なぜか滝がある。少なくとも湧水を引いて水が落ちている。あるいはせせらぎだったりする。密教と深い関わりのあるお不動さまは、水神の性格を受け継いでおられるのだろうか。このあたりの事情はwikiを読んでもよくわからぬ。

おや? お不動さまは、神か、仏か。まずそこからである。wikiには「信仰対象」とあって、神か仏かが明確に書かれていない。神仏習合という日本古代史上の「荒業」に、いま、わたしは戸惑わされている訳だ。

こうした事柄が去来して、お参りの作法が定まらずにいた。少なくとも柏手を打つのは違うように思える。それに、目黒不動さんはたしかお寺だったと思い出された。ならば、瞑目して合掌、礼拝しておけ。冷たい風が流れる寂しい谷の底で、わたしは頭を垂れて、また参りますと呟いた。














2019年1月5日土曜日

里の仏に会う〜矢諸普門院


澄んだ冬の空の下を少し歩きたくなって、山裾にある古い観音堂へと足を運ぶ。

今年も正月二日に善光寺さんへのお参りが叶った。こどもたちと初詣に来ることが出来るのは、こののち幾たびだろうと思い巡らせる。何年か経れば家を出たり、あるいは友だちや恋人と過ごすようになるだろうから、家族揃っての初詣というのは、いつまでも続くものではないのだ。そう考えると、一昨日の、御門前の仲店通りから仁王門、山門とくぐり、あのご本堂で阿弥陀さまのお慈悲に触れる時間というものが、かけがえのないものに思えてきた。もちろん長野道を走っての往復の時間も含めて、わたしの宝物である。

となると、今年の初詣も、ひとつの奇跡だったと思えてくる。感謝せねばならぬ。ありがたさにミドルは目頭を熱くして、にじんだ涙を家族に悟られぬよう、散歩に出るのである。

上の写真であるが、鉢伏山から高ボッチの稜線が善知鳥峠(うとうとうげ)に下っている。その上に、真っ白な南アルプスの峰が顔を出している。遠すぎて判別しづらいが、赤石、聖、光あたりの山々だ。





拙宅の窓から夜に眺めると、裏山の中腹にぽつんと灯りがともる。その灯りがこれである。正体を知り得たとき、それが観音堂の灯りであったことは、小さな感激であった。







地蔵様や丸石、三猿などの石像物が祀られている。観音堂へののぼり口に掲げられている案内板の内容を転記しておく。

矢諸観音堂

十二世紀初頭(保元年間)には普門院と呼ばれ、多くの伽藍を構えた大きな寺で、寺の位置は現在地より少し下方で広い境内を擁した。近世松本三十三番札所の二十七番霊場として信仰をあつめた。本尊は平安末期の一木造りで「聖観世音菩薩立像」。一時期堂を離れたりしたが、堂再興で再び戻った。岡田冠者源親義も信奉したという。

平成二十一年十月 
岡田地区町会連合会 岡田歴史研究会


この案内板に書かれている「普門院」というむかしのお寺の大きな門が、こんにち大門沢川という流れの名前に受け継がれている。大門沢は西と東のふたつの流れがあり、松本市街地の開智というところで合わさる。そのあとは北松本の駅そばを流れて奈良井川に注いでいる。





▲平成三十一年一月二日の善光寺さんご本堂。



 ■□■

観音堂に向かう前に、式内社の岡田神社に参詣しておいた。


四日の午後ともなれば境内は静かで、氏子の姿もない。涙をにじませた初詣の件で、神仏にいくらお礼を申し上げても足りないぐらいだ。お賽銭も百円玉をためらわず差し上げ、柏手を打ってから神前を下がる。





鳥居の向こうに、旧善光寺街道が通る。写真左が岡田宿、刈谷原峠を経て善光寺へ。右側は松本御城下、洗馬宿などを経て京へ、またお伊勢さまへと通じる。この古い街道は、祈りの道なのだ。

善光寺、というキーワードがまた出てしまった。涙は風に乾いていたが、またまたありがたさがこみ上げてきて、南無阿弥陀仏とつぶやく。





観音堂の裏手の山の中を歩いていると、ヤマトが草を食んでいた。なんでも北海道の道産子というのか、いまでは信州に移り住んで農耕馬として働いているらしい。





丘から降りて来ると、ほ場に、麦の芽が鮮やかだった。




2019年1月2日水曜日

何処から来て、何処へ

わたしたちは、どこから来てどこへ行くのか。

この問いを、あるいは解を、集団の出自(またはアイデンティティ)に結びつけて保存、継承することに祖先たちは腐心したようだ。

古代の国家形成期の頃から、人々は祖神を祀り、祖神の性格と一族の出自を結びつけ、その祭礼を執り行うことで一族のアイデンティティを受け継いできた。たとえば安曇(阿曇)族は、海神の綿津見命を祖神として志賀島神社や穂高神社に祀り、穂高神社では祭礼として『御船祭』がいまも続く。海のない信州各地には、このほかにも『御船』を曵き回す祭礼が知られていて、安曇族というキーワードがなければ奇異にも思える。やがて信州安曇野から安曇族はこつ然と消え去ったが、安曇族が北部九州から来た海人族である、という事柄は保存、継承されており、各地の祭礼にもその痕跡を残している。


 ▲これは松本市里山辺に鎮座する『須々岐水神社』の例大祭(2018年5月)。



祭りというのは、集団の記憶装置なのである。

口伝えや物語化したエピソードで、何百年、あるいは千年紀をまたぐ永きに、何かを伝えるには限界があるのだろう。暦の中に刻みこんだ様式と行動によって、それを繰り返す「しきたり」や「いとなみ」が重要視されたのだ。文字文化が伝来するはるか以前から、祖先たちは冒頭に掲げた「どこから来た何者か」をわたしたちに伝えるため、祭りを連綿と続けてきたのだ。





 ▲平成最後の初日の出を拝む瞬間。正面は松本では東山と呼ばれる袴腰山とその肩に王ヶ頭。




そんなことを考えながらこの年越しを済ませ、元旦に雑煮を仕込んでいた。






我が家の雑煮は、焼きあごの出汁で澄まし汁、ここへ鰤と鶏肉が入る。餅にはこだわりがない。これはわたしの父の郷里である長崎の流儀だと聞いている。むかし母が亡くなってからはわたしが雑煮を作ることになり、いつもの味を再現したところ頑固な九州男児である父が「これでよか」とあっさり合格をくれた。そのとき以来、同じ味の雑煮を作り続けている。信州の雑煮は味噌仕立てで、澄まし汁はほぼないだろう。それでも、信州人である家人も同居の義母も文句は言わず、九州長崎風の雑煮を毎年喜んでいる。



わたしは、おのれのDNAが九州から来たことを、こうして一椀の雑煮で毎年々々確認している。わたしがどこから来た何者なのかを、こうして確かめているのだ。




 ▲松本市入山辺の大和合神社(2014年1月2日)。神域は清められ、新年の佇まいが清々しい。


元旦の、杯を持つ手がふと止まった。

暮れに松を飾り、鏡餅を供え、年が明ければ屠蘇と雑煮で祝う....。
晴れ着を身にまとって家族で氏神さまにお参りする...。

細かい部分はどうでも良い。時代の移り変わりとともにディティールは変化する。氏神さまと産土神さまの違いも、いまでは朧(おぼろ)である。個々の要素はさておき、こうして新年を祝うというしきたりは、わたしたちの祖先から連綿と受け継いできた「祭り」に他ならないのではないか。この列島で棲み暮らしたわたしたちの祖先が、わたしたち自身が何者であるかを教えてくれているのだ。



そう気付かされたとき、ぐりぐりと突きつけて来るものがあった。
わたしは何者か。
わたしは何処から来たのか。
そして、わたしは何処へ行こうとしているのか。



腹がくちくなった中学生のこどもふたりは、お年玉を財布にしまいながらふざけ合っている。こいつらが長じて正月を祝うとき、雑煮を作るだろうか。その雑煮はどんな仕立てだろうか。まあ、別に雑煮なんてどうでも良いのだ。雑煮を作らないのなら、それに替わる新しい価値を見つけ出してほしいということだ。そして問いかけ続けてほしい、己は何処から来たかと。



さきほど初日の出を拝もうと屋外に出たおり、路面に居たおのれの影法師のことを思い出した。

大晦日には、わたしの古い影法師が日の入りとともに消えてゆくのを眺めた。昨日ゆうがた、果樹園で薄れて去って行った影法師と、この影法師は同じものなのだろうか。ならば昨日のわたしと、新年を迎えたわたしは同じわたしなのであろうか。

わたしは何者なのだろうか。