2019年1月5日土曜日

里の仏に会う〜矢諸普門院


澄んだ冬の空の下を少し歩きたくなって、山裾にある古い観音堂へと足を運ぶ。

今年も正月二日に善光寺さんへのお参りが叶った。こどもたちと初詣に来ることが出来るのは、こののち幾たびだろうと思い巡らせる。何年か経れば家を出たり、あるいは友だちや恋人と過ごすようになるだろうから、家族揃っての初詣というのは、いつまでも続くものではないのだ。そう考えると、一昨日の、御門前の仲店通りから仁王門、山門とくぐり、あのご本堂で阿弥陀さまのお慈悲に触れる時間というものが、かけがえのないものに思えてきた。もちろん長野道を走っての往復の時間も含めて、わたしの宝物である。

となると、今年の初詣も、ひとつの奇跡だったと思えてくる。感謝せねばならぬ。ありがたさにミドルは目頭を熱くして、にじんだ涙を家族に悟られぬよう、散歩に出るのである。

上の写真であるが、鉢伏山から高ボッチの稜線が善知鳥峠(うとうとうげ)に下っている。その上に、真っ白な南アルプスの峰が顔を出している。遠すぎて判別しづらいが、赤石、聖、光あたりの山々だ。





拙宅の窓から夜に眺めると、裏山の中腹にぽつんと灯りがともる。その灯りがこれである。正体を知り得たとき、それが観音堂の灯りであったことは、小さな感激であった。







地蔵様や丸石、三猿などの石像物が祀られている。観音堂へののぼり口に掲げられている案内板の内容を転記しておく。

矢諸観音堂

十二世紀初頭(保元年間)には普門院と呼ばれ、多くの伽藍を構えた大きな寺で、寺の位置は現在地より少し下方で広い境内を擁した。近世松本三十三番札所の二十七番霊場として信仰をあつめた。本尊は平安末期の一木造りで「聖観世音菩薩立像」。一時期堂を離れたりしたが、堂再興で再び戻った。岡田冠者源親義も信奉したという。

平成二十一年十月 
岡田地区町会連合会 岡田歴史研究会


この案内板に書かれている「普門院」というむかしのお寺の大きな門が、こんにち大門沢川という流れの名前に受け継がれている。大門沢は西と東のふたつの流れがあり、松本市街地の開智というところで合わさる。そのあとは北松本の駅そばを流れて奈良井川に注いでいる。





▲平成三十一年一月二日の善光寺さんご本堂。



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観音堂に向かう前に、式内社の岡田神社に参詣しておいた。


四日の午後ともなれば境内は静かで、氏子の姿もない。涙をにじませた初詣の件で、神仏にいくらお礼を申し上げても足りないぐらいだ。お賽銭も百円玉をためらわず差し上げ、柏手を打ってから神前を下がる。





鳥居の向こうに、旧善光寺街道が通る。写真左が岡田宿、刈谷原峠を経て善光寺へ。右側は松本御城下、洗馬宿などを経て京へ、またお伊勢さまへと通じる。この古い街道は、祈りの道なのだ。

善光寺、というキーワードがまた出てしまった。涙は風に乾いていたが、またまたありがたさがこみ上げてきて、南無阿弥陀仏とつぶやく。





観音堂の裏手の山の中を歩いていると、ヤマトが草を食んでいた。なんでも北海道の道産子というのか、いまでは信州に移り住んで農耕馬として働いているらしい。





丘から降りて来ると、ほ場に、麦の芽が鮮やかだった。




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