2019年1月2日水曜日

何処から来て、何処へ

わたしたちは、どこから来てどこへ行くのか。

この問いを、あるいは解を、集団の出自(またはアイデンティティ)に結びつけて保存、継承することに祖先たちは腐心したようだ。

古代の国家形成期の頃から、人々は祖神を祀り、祖神の性格と一族の出自を結びつけ、その祭礼を執り行うことで一族のアイデンティティを受け継いできた。たとえば安曇(阿曇)族は、海神の綿津見命を祖神として志賀島神社や穂高神社に祀り、穂高神社では祭礼として『御船祭』がいまも続く。海のない信州各地には、このほかにも『御船』を曵き回す祭礼が知られていて、安曇族というキーワードがなければ奇異にも思える。やがて信州安曇野から安曇族はこつ然と消え去ったが、安曇族が北部九州から来た海人族である、という事柄は保存、継承されており、各地の祭礼にもその痕跡を残している。


 ▲これは松本市里山辺に鎮座する『須々岐水神社』の例大祭(2018年5月)。



祭りというのは、集団の記憶装置なのである。

口伝えや物語化したエピソードで、何百年、あるいは千年紀をまたぐ永きに、何かを伝えるには限界があるのだろう。暦の中に刻みこんだ様式と行動によって、それを繰り返す「しきたり」や「いとなみ」が重要視されたのだ。文字文化が伝来するはるか以前から、祖先たちは冒頭に掲げた「どこから来た何者か」をわたしたちに伝えるため、祭りを連綿と続けてきたのだ。





 ▲平成最後の初日の出を拝む瞬間。正面は松本では東山と呼ばれる袴腰山とその肩に王ヶ頭。




そんなことを考えながらこの年越しを済ませ、元旦に雑煮を仕込んでいた。






我が家の雑煮は、焼きあごの出汁で澄まし汁、ここへ鰤と鶏肉が入る。餅にはこだわりがない。これはわたしの父の郷里である長崎の流儀だと聞いている。むかし母が亡くなってからはわたしが雑煮を作ることになり、いつもの味を再現したところ頑固な九州男児である父が「これでよか」とあっさり合格をくれた。そのとき以来、同じ味の雑煮を作り続けている。信州の雑煮は味噌仕立てで、澄まし汁はほぼないだろう。それでも、信州人である家人も同居の義母も文句は言わず、九州長崎風の雑煮を毎年喜んでいる。



わたしは、おのれのDNAが九州から来たことを、こうして一椀の雑煮で毎年々々確認している。わたしがどこから来た何者なのかを、こうして確かめているのだ。




 ▲松本市入山辺の大和合神社(2014年1月2日)。神域は清められ、新年の佇まいが清々しい。


元旦の、杯を持つ手がふと止まった。

暮れに松を飾り、鏡餅を供え、年が明ければ屠蘇と雑煮で祝う....。
晴れ着を身にまとって家族で氏神さまにお参りする...。

細かい部分はどうでも良い。時代の移り変わりとともにディティールは変化する。氏神さまと産土神さまの違いも、いまでは朧(おぼろ)である。個々の要素はさておき、こうして新年を祝うというしきたりは、わたしたちの祖先から連綿と受け継いできた「祭り」に他ならないのではないか。この列島で棲み暮らしたわたしたちの祖先が、わたしたち自身が何者であるかを教えてくれているのだ。



そう気付かされたとき、ぐりぐりと突きつけて来るものがあった。
わたしは何者か。
わたしは何処から来たのか。
そして、わたしは何処へ行こうとしているのか。



腹がくちくなった中学生のこどもふたりは、お年玉を財布にしまいながらふざけ合っている。こいつらが長じて正月を祝うとき、雑煮を作るだろうか。その雑煮はどんな仕立てだろうか。まあ、別に雑煮なんてどうでも良いのだ。雑煮を作らないのなら、それに替わる新しい価値を見つけ出してほしいということだ。そして問いかけ続けてほしい、己は何処から来たかと。



さきほど初日の出を拝もうと屋外に出たおり、路面に居たおのれの影法師のことを思い出した。

大晦日には、わたしの古い影法師が日の入りとともに消えてゆくのを眺めた。昨日ゆうがた、果樹園で薄れて去って行った影法師と、この影法師は同じものなのだろうか。ならば昨日のわたしと、新年を迎えたわたしは同じわたしなのであろうか。

わたしは何者なのだろうか。




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