2020年1月31日金曜日

骨猿の谷


その谷を遡行してみようと思ったきっかけは、地形図だった。安曇野に落ちる小さな沢の地形が興味深かったからだ。小突起が並ぶ複雑な地形、断崖を表すゲジゲジマーク、そこに思い浮かべたのは、小さな流れながらもゴルジュを連ねる陰気な渓相だった。もう何年も前の初夏のことだが、わたしはローカットシューズにヘルメットと少しばかりのガチャを携えて、単独、件の谷へと向かった。





安曇野の別荘地の一角、大きなお寺の裏から谷に降りることが出来た。沢沿いの林道は途中で消失していたが、川原に下りてしまえば岩と流木を除けながら歩くだけだった。堰堤をいくつか乗り越えたり巻いたり、さらに支流を分けたり進みながら、やがてわたしは本流の流れの真ん中に居た。




地形図の情報から推測して、本流はやがて急な斜面を流れ下りて来ることが判っていた。滝のマークは無いが、百メートルに満たない区間に六本の等高線が数えられる。期待と不安の混じり合わせの気持ちで本流を進んだ。





斜面の下からて、わたしは口をあんぐりと開けたまま、連瀑を仰いだ。いくつか岩を攀じのぼりながら水しぶきを浴びてみた。そして怯んだ。とても登れるものではない。

地形図を眺めて、別な流れを遡って行くと、小さな尾根をまたぐだけで連瀑帯の上に出ることが出来ると知った。何とそのルートには、電力会社の巡視路が儲けられていた。





明瞭な踏み跡をたどり、少し下りて来れば滝の上に出た。ここからは崖に挟まれた流れが続くはずである。





腰からへそぐらいの瀞や渕を進む。初夏だから水は冷たい。花崗岩の足元にはこけが無くスリップすることはなさそうだった。





容易に越えられる滝がいくつか迎えてくれる。あえて真ん中をじゃぶじゃぶと進んだ。





身体が冷えてきた。頭上に送電線を仰ぐ場所で珈琲を味わう。手製のアルコールストーブが写っている。





流れが北に直角に曲がる地点に来た。10メートルぐらいの滝になっている。





滝の下で、右側の何処を登ろうかと眺めていたら、傍らに骨猿が居た。苔むしたところで、頬にもこけを浮かべている。何も言わずに虚ろな眼孔で暗い樹林を眺めていた。わたしは彼に挨拶し、滝の右側を登ってみた。ほんの数メートル。脆い岩のホールドに悪態を少しついて、骨猿の所へ戻った。ハーネスを装着したまま流木に腰掛け、時おり吹き下ろして来る風に震えながら、彼と何を話そうかを考えていたが、お互いに何も話すことが無いとわかった。簡単な挨拶を済ませ、わたしは骨猿の谷を後にした。