2019年5月20日月曜日

こしあぶらめし


近所の恒さんがコシアブラをくれた。天ぷらとおひたしで堪能した残りが少しある。わたしが大好きな食べ方で、そう、オイルでさっと炒めて塩で味付け、朝の熱い飯に乗せていただこう。奥に写っているのは山独活。





この星の緑の大地が恵んでくれる至宝。甘美にしてほろ苦く香り高い山菜の女王。





エキストラヴァージンオイルでさっと短時間炒める。火を入れすぎると香りが飛んでしまう。




これを温いめしに乗せて味わうのだ。うむ、美味い。コシアブラならではの濃厚な味わいを損なうことなく、オイルがしっかりまとめてくれた。わずかな歯応え、舌触り。口腔いっぱいに広がる高貴な香り。

手前の黒っぽいのは、山独活のきんぴら。これまた異なる味わいで、朝のめしに素晴らしい旋律を奏でてくれる。ひと碗の小宇宙に響き合う、春の味わい。わたしは陶然として空のどんぶりを置いた。
















2019年5月12日日曜日

たらの芽をスパゲティで味わう



昨日の森歩きで、数本だけたらの芽をいただいてきた。歩いて行ける裏山界隈ではもう芽吹きも過ぎて元気に枝葉を伸ばしている。そこで、まだ足を運んでいなかったある谷沿いの群落を見に行ってみる。




やや日当たりが悪いから、少し遅れて芽を出してはいないか。





やはりここは少し遅い芽ぶきのようだ。樹勢に影響の少なそうな箇所から、少しだけ分けていただく。これで今年はおしまい。



天ぷらにするほどの量もないので、スパゲティに仕立てよう。サラダ菜があったのでこれも添えて。





にんにくとオイルの香りに陶然となる。





秘が通ったところで、茹で上げたサラスパ160gを合わせる。強火でオイルを乳化させて完成。




いただきます。




2019年5月11日土曜日

春の野に酔う


桜に続いて林檎が花を開かせると、信州は爛漫の春を迎える。夏の兆しには遠く、しかし冬の記憶も薄れかかるこの季節になると、わたしはしばしば野に出て酔い痴れる。もしかしたら季節を問わずに野に出て酔っているかもしれないが、この季節には好んでそうする。






夕方、空の下で、身一点に感じられると中原中也が歌った人間としての到達点に、わたしは遠く届かない。それでも、南に鉢伏山を眺めて足下のせせらぎを肴にモルトを呷るとき、いま人生の楽園に居ると気付かされる。





ある日、素敵な池を見つけた。裏山の一角から樹林越しに水面が見えたのだ。早速訪れてみると、野の小路の奥にひっそりとその池はあった。堤にケツを据えてモルトを嗅ぐ。ツマミは要らない。「山、嗤う」と表現される広葉樹の芽吹きのいろどりをながめているだけで、池のほとりには静かに時が流れていく。




池の奥にも小路が続いている。轍を拾ってみよう。

何度も訪れたことがある丘の上に出ることができた。数年前からベンチが置かれている。お借りしますと呟いて、モルトの続きを愉しむ。




 あああ堪らん。




ここまで来る途中の森の中には躑躅が咲いていた。





棄てられた乗用車。型式も古いものとうかがえる。

モルトを一旦ケツのポケットに納めて、さらに野から森へ、続く丘へと足を運ぶ。





ここもよく来る観音堂。拙宅の屋根も見えている。





田植えが始まろうとしている。水が張られた田圃には、今夜から蛙達が集まり出すことだろう。夕方、空の下で、身一点に蛙の合唱を聴いてみようではないか。むろん、モルトを携えて。





















2019年5月4日土曜日

たらの芽を摘みに

うららかな春の朝。わたしは朝食を終えると、新しいMoraKniv Classic  2/0を腰に帯びて野遊びに出た。近くの里山に、山独活を堀りに行くのだ。ついでに尾根を登って、たらの芽を摘んで来よう。



新しいナイフはこころを浮き立たせてくれる。わたしは空と、微風と、せせらぎと挨拶を交わす。市街地に刃物を帯びて闊歩するわけには参らぬが、拙宅から裏山までは果樹園と田畑である。そこいらに居る人は誰もが、つまりは野良仕事中で、腰に鉈か鎌か鋸か鋏か包丁かの、いずれかふたつぐらいをぶら下げている。3インチに満たないMoraKniv  Classic 2/0ぐらいで咎められるものでもない。しかし鋭いブレードをひそかに隠し持っていると誤解されかねない。そんなわけでわたしは、使う予定こそないが、やむなくもう一本のプーッコナイフIivarin Puukkotehdaと七寸の土佐東周作青紙入鋼の剣鉈を一緒に腰に下げた。明らかに山仕事の装備である。これで赤色回転灯の接近などを懸念することなく、山に分け入った。




山桜も散り始めている。里山の森は一斉に芽吹き、春の訪れを喜んでいる。手前に写っているのはカンゾウの群落。お浸しやぬたで味わう山菜だが、少し遅いようだ。




杣道は尽きて、やがて薮漕ぎとなる。この森にはハリギリが多い。ウコギ科でタラノキやコシアブラとは近い種である。芽はタラの芽と同じように食用になるが、アクも苦味も強い。その野趣溢れる味わいを解るほどに、おのれが出来ていない。人間の苦味も、足りていないのだ。




こういう小さいのは残しておく。次の人が来週に摘むかもしれない。誰も訪れず、大きく枝葉を広げるかもしれない。そうすれば幹は広がり秋には種もこぼれる。




近所の山友の家族の分もこれで賄える。必要以上に摘むことはない。山の幸を、山の神様から分けていただいているのだ。



たらの芽を「摘む」と書いた。
理由がある。Youtube 等でも見かけるが、たらの樹を鉈でスッパスッパ斬っていく不心得者が居る。山のたらの芽を頂くのに、鉈を使うのは許されぬ所業なのだ。不心得と書くより不埒者と蔑むべき、山も自然も理解できていない、恥ずかしい行いなのだ。




この写真をご覧いただきたい。


これは一週間ぐらい前に、誰かが摘んだ樹頂の芽。よく見ると左右に二番、三番の芽が顔を出している。幹を伐らずに芽だけを摘めば、次が出る。枝葉が茂る。伐ってしまえばその幹は枯れる。己の目先の欲望だけで、樹が枯れても構わないというのは、あまりに身勝手である。




この日の山の恵みは、お約束の天ぷらと、オリーブオイルで炒めた洋風の味わいでいただいた。噛み締めるとほろ苦さと甘みが響き合い、春の真ん中に居ることに気付かされた。







2019年5月1日水曜日

二本のモーラ・クラシック

不注意から、指を痛めた。


治るまでのことを考えた結果、わたしには二本の包丁を新調する必要が生じた。しばらくは、こどもたちに料理を作ってあげられない。一日も早く、親父の手料理を、彼らが好きなご馳走を作ってあげられるよう、傷を治さなくてはならない。



少し違う。傷はすぐに治るだろう。問題なのは、粉々に砕けてしまった骨たちがくっつき、傷ついた組織が修復され、続いて癒着してしまった腱と筋肉が自由な動きを取り戻すプロセスのことだ。過去の経験から、骨折の辛さはリハビリの痛みに尽きると知っている。だからこそ早期に、この苦痛を軽々と乗り越えて手指の機能を回復するために、具体的なゴールイメージを描かなくてはならない。そのためには、二本の新しい包丁、あるいはナイフが必要なのだ。この二本を操って、料理を楽しむのだ。

そうなのだ。ある春の日に怪我を負い、大きな病院の救急外来で手術を受けた。上手くいかずに翌日に再手術となった。醒めかけた麻酔が連れてきた激痛と灼熱を薄れさせようと、わたしは深夜の病室で二本のモーラナイフ(Morakniv, Mora Knife )を買い求めた。



元号が改まった雨の日に、二本のモーラナイフが届いた。Morakniv classic 1とclassic 2/0である。以前から写真でよく眺めていたが、わたしはキノコを連想した。




違うこれじゃない。浮き出した白い模様のない、あかくてツルッとしたやつだ。そうタマゴタケ。




スエーデン王国から来た真っ赤なタマゴタケ。Morakniv Classic 2/0(左) と Morakniv Classic 1(右)。ブレードはどちらもハイカーボンスチール。鋼材メーカーの表記や情報は見当たらないが、高炉屋がいくつもあるお国柄である、それなりの配合と組成のブレードを使用しているはずだ。早速箱出しでテストすると、切れる。グラインドはベタなスカンジでセカンダリベベルは施されていない。スカンジナビアから来たナイフはこれで良いのだ。

これが、一本20ドルもしない。Youtube にあげられていた製造元の動画を見ればその理由がわかる。ブレードの製造工程でコイルからプレス打ち抜きを行っている。続いてグラインドもロボットが行っていた。






並べると、ベベルの高さが異なることに気づく。右のClassic  1はブレード厚が2.0ミリ、ベベルが狭い。左のClassic 2/0はブレード厚2.5と板厚がある分、高い位置から削って刃を出している。エッジの角度へのこだわりか。

隣国フィンランドでは、伝統的なpuukkoの定義でベベルの削り出しのラインがブレードの真ん中より上になくてはならないようだ。そうするとMorakniv Classic は厳密にはpuukkoではなくなる。こうした事柄も、わたしには理解しなくてはならない課題だ。



小さいながらブレード厚が2.5ミリのClassic 2/0。こいつはいっそコンベックスに研ぎ直して、タフな肉切り包丁とするのはいかがだろう。肉切りといっても、鯛の頭を断ち割ったり、鶏の脚から肉を剥がしたり、わたしが大好きな牛スジの下ごしらえである。ジャガイモの芽を抉ったり南瓜の皮剥きにも働いてくれそうである。守備範囲は広く取りながらあくまでタフに、普段は鯵切り包丁を使うような場面を想定している。




2/0を角度を変えて。タングはラットテイルながらハンドルエンドまで貫通している。一方の1はハーフタングである。





ブレード厚が2.0のClassic 1は、スカンジのままセカンダリベベルなし、でもストロッピングは念入りに行ってペティナイフとして使う予定である。クレバーシャープと書けば良いのか、野菜のカット、刺身を引く時、あるいはスライスに活躍してくれるだろう。タフな使い方は避けて、切れ味を求めていこう。




現物が届くまでは、グラインドを調整するだけでなくハンドルも付け替えて、などと考えていた。ところが、手に取って眺めていると、道具としての可愛らしさ、頼もしさが沸き上がってくる。ハンドルはタマゴタケのまま、このままにしておこう。これはこれで、わたしのプーッコ(もどき)の入り口として大切にしよう。そして、次は隣国のフィンランドからブレードをこっそり仕入れて、正真正銘のプーッコをオリジナルハンドルで作るのだ。部材には白樺だけでなく信州の林檎の樹を使ってみたい。根本や太い幹に生じるこぶの中から、どんな杢目が現れるだろう。林檎を材木として扱うケースは稀である。フロムナガーノ、わたしは問いかけてみよう。