2018年3月31日土曜日

夢屋(やきとり、やきとん)


夢屋のNとはもう20年ぐらいの付き合いで、知り合った頃はわたしがまだ青年で、Nは少年だった。そのころは夢屋は松本駅前ではなくてすこし離れた上土(あげつち)にあった。ごく近所だったので夜更けにこっそり家を抜け出して飲みに行ったものだ。


社長のYさんは、「夢屋」を上土の小さな焼き鳥屋から育て上げ、いまでは松本駅前に何軒もの飲食店を繁盛させているビジネス・パーソンである。であるが、いまでもカウンターの中でみずから焼き鳥を焼く。このYさんは夢屋を育てると同時にNを育て上げた。厳しい修行の果てにNが身につけた「わざ」というのは凄いもので、要するに美味いのだ。




ある冬の終わりの日。雪が降って電車通勤となった。帰りは松本駅からバスである。バスであるがタクシーでも良いのだ。つまり駅前で一杯やることになったので、独り夢屋の暖簾をくぐった。待ち受けていたのは、ハイボールとねぎまである。





豚バラは塩が良い。社長のYさんが豚バラに塩を振る光景を眺めたことがあるが、それは凄まじいもので指先から気合いとともに光線を放っていた。わたしは剣客という存在に出会ったことは無いが、真剣を以ての立ち会いの際、こうした気合いを発するのだろう。それもそこいら辺の町道場のあるじとかではなく、塚原卜伝とか上泉伊勢守とか小説になってるくらいの剣客だ。おなじく、弟子のNが振った塩加減も絶妙と言わざるを得ない。塩とともに波動のようなものが肉に注がれて、その作用があるのだろう。厳しい修行というものは、人に信じられない能力を獲得させるのだ。






もう一年近く前のことだ。
長男の大豆が突然「岩魚を喰いたい」と言い出した。春山テント泊に出かけられずに悶え狂っていたわたしは、それならば岩魚を喰いにいこうと出かけることにした。

松本市内には岩魚を喰わせるところがいくつも在るが、せっかくなので電車に揺られ、バスに乗り換えて岩魚を喰うことにした。


バス停からは一時間ほど歩き、古びた小屋のような食堂で岩魚を食べたのである。写真は中学二年生の大豆である。

大豆は、上高地でもいろいろ食べていたが、松本駅に戻った時には腹が鳴っていたようである。焼き鳥でも喰わせてやろうと夢屋に寄った。




ハイボール(父)、コーク(大豆)。放置民式の「パンカイ」は既に教育してあるのだ。

目の前でY社長が肉に塩を振り、焼き上げるのを、大豆は眺めていた。その表情がだんだんとぎらついたものに変じていき、獰猛な野生動物のようになってきた。明らかに溢れ出る唾液に困惑している。じゅるっと聞こえてきそうである。身体を乗り出している。もう待てないのだ。Y社長が串を皿に載せ、芥子を添える。その皿が目の前に来ると、置かれる前に串に手が伸びた。その串を口元に持っていく。ぱくっと喰らいつく。咀嚼する時を惜しむかのように味わい飲み込む。その瞬間、14歳の大豆は、

あぐうぅぅぅ。

というくぐもった唸りを響かせた。わたしは、一本の串に神が宿ることを、この時に知った。







フィラメントというものが、やがてフロッピーディスクと同じに語られる日は近い。

ややや。信州産鹿すじ肉の煮込みとある。





うははは。味わってやる。食してやる。さあ来い。





かつて唐の国で玄奘三蔵という偉い坊さんがパラダイスを探して西へ向かったそうな。ふふふ、三蔵さんよ知らぬが仏とは言わぬが、パラダイスは信州松本駅前、夢屋のカウンターに在るのだよ。





時刻が早くてわたし独りである。週末の夜などはごった返して肩を寄せ合って呑む。早い時刻に陣取るのがよろしい。





松本駅前、昭和横町、やきとり・やきとん『夢屋』。

あなたも「あぐうぅぅ」と叫ぶような夜を、過ごしてみないか?








2018年3月25日日曜日

里山に淡雪を踏みて





お前は何故、山に行くのか?

それは、わたしが存在しているからだ。








国道254号の野間沢橋。
三才山トンネルの西側にある、標高1000mの標識が掲げられている場所だ。そういえば、僕が最初に通った小学校は池袋にあった。小学校の前の大通りが国道254号で、登下校でこれを渡ったのだ。さらに、サラリーマン時代は埼玉県富士見市の254号近くのアパートに暮らし、のちに仕事を独立して構えた事務所が、文京区本郷の254号に面した雑居ビルだった。いま、松本市平瀬橋の国道254号の終点を、毎朝通っている。わたしは、国道254号に沿って生きてきたのかもしれない。





欅の森に分け入る。野間沢右岸の斜面にジグザグと高度を稼いで行く。





日陰の溶け残った雪の上に、小狐の足跡が残されていた。拙宅前の林にも一匹が棲み着いている。里でも山でも、ちかごろは狐が増えているのだろうか。





赤松と落葉松、尾根の左右の植生が異なる。雪の上を歩けることが嬉しくて、こころが弾む。





白樺の林を行くようになると、梢の向こうにめざす本峰が見えてくる。





送電線の鉄塔をふたつ数える。三つ目で稜線のコルに出る。





稜線に乗れば、山頂へ、はじめはなだらかな尾根を、最後だけ急な斜面を登る。





1629m、山頂は貸し切り。

風もなく、遠い空に翼を鳴らすジェット機の響きが聴こえるぐらいだ。山の神さまへのお供えを差し上げ、きょう、山に来ることが出来た奇跡に感謝する。





前日、スノウシュウの人がひとり、訪れただけのようだ。






常念山脈の上に、槍穂高の稜線も見えている。穂高の南には霞沢岳、かすむ北の方には後立山のみならず、立山劔も顔を出す。





雪を融かして珈琲タイム。





よく晴れた。

わたしは、山に行くとピークや尾根の片隅やそこかしこに、たましいの欠片(かけら)を置いてくる。今眺めているあのピーク、あのコル、その向こうのカール、あの雪渓の屈曲点に置いてきたたましいの欠片が見える。その時に同行した仲間との会話だって覚えている。たとえば、鹿島槍下山中の稜線でジョリィと畑仕事の話をした。そんなこんな、北アルプスのあっちこっちに置いてきたたましいの欠片を、こうして遠くから眺めて確かめる。おのれが、あの日あの時、間違いなくあの場所に居た、ということを呼び覚ますためだ。


娘が、さきごろ小学校を卒業した。毎朝バス通りまで送るのがわたしの日課で、6年間それを続けたのだった。別れ際にわたしは言う。「うつくしい一日を」。娘はいつも笑って手を振る。卒業式近いある朝、問うた。小学校、何が一番の思い出だった? 「うん、金管バンド!」

卒業式の前の日。この日が金管バンドの最後の練習だと言う。わたしは娘に言った。「音楽室に、あなたのたましいの欠片を置いてきなさい。あなたがそこに居たんだ、という証を刻んできなさい」

いつもは笑ってかわす娘が、すこし難しい顔をした。考えているのだ。その表情のまま、娘は登校して行った。


娘は理解してくれたようだ。この音楽室にたましいの欠片を置いてきたと言う。きっと、時が過ぎてから、その欠片は君に語りかけるだろう。






山頂を後にする。春の陽射しまぶしい雪の尾根を歩く。





欅の森の女神よ。いつか巨樹に育ってくれ。





ついさっきまで締まっていた雪は、陽光と風にぬくめられて腐ってきた。雪団子を落としながら標高を下げて行く。





時は移ろう。季節も風もひかりも、なにひとつ不変のものは無い。移ろい過ぎ行き姿を変え、戸惑ういとますら与えずに流れて行く。わたしは旅をしている。旅の途中でたましいの欠片を置いてきて、そしてそれを取りに戻ったり遠くから眺めたりする。すべてが移ろい行くなかに、せめてもの瞬間瞬間の自分を刻んでいる。旅の終着駅は、わたし自身が入る墓穴だ。そのときまで、あの峰、あの尾根のそこかしこにわたしの記憶を刻んでいくのだろう。





ふたたび国道254号に降り立った。ずっと昔、この道のはるか彼方にある小学校の前を朝夕渡っていった少年が居た。





里に下りて、山の神さまにお礼を申し上げる。いま、わたし自身が存在している奇跡にも、ありがとうを呟く。





女鳥羽川の畔から、戸谷峰を振り返る。山の神さま、ありがとうございました。









2018年3月24日土曜日

巨木に会う〜松本市内田の大欅


鉢伏山の山麓にあたる松本市南東部に内田と呼ばれるところがある。山の傾斜が西に向かって緩やかになってきて、そろそろ平地と交わるだろうかという一帯である。目の前にはいつも北アルプスの稜線が見えていて、松本城付近からはまったく見えない穂高の岩の伽藍が望まれる土地である。

その一角に、内田(馬場家)のケヤキと呼ばれる巨樹がある。


平成30年1月27日、わたしは凍てつく空の下をリトルに跨がって、この大欅に会いに来た。







大欅の下に、南面する祠と鳥居がある。巨木と祠はいわば「組み」になっているというのがわたしの持論で、その説明に「ひとは巨木に会うと、そこに神を見る」という言葉を使う予定でいる。

内田のこの大欅も同じように観察していたら案内板があった。そこには『祝殿』とあって、この祠は屋敷神、祖霊神の性格を持つようだ。祀られている祠の神さまが先なのか、巨木があるから祠が置かれたのか、鶏と玉子のような事柄のようだ。この問題を突き詰めて行くと、神社とは、祭祀とは、神さまとは、そして日本人とは、というところに触れねばならぬので、今は控えておく。





神が宿るのか。それとも天地に満ちた神霊がこの樹に降りるのか。わたしはたしかに、神を見た。





サイト『松本のたから』にある紹介文をそのまま貼っておく。



馬場家を守る聖なる空間
  内田の重要文化財馬場家住宅の祝殿(いわいでん)の境内にあり、馬場家のケヤキともよばれています。馬場家の祝殿は古屋敷大明神を祀ったもので、棟木銘から明治22年(1889)の再建であることが明らかになっています。この祝殿は、他の馬場家住宅の建造物とともに国重要文化財に指定されています。
  祝殿の境内とその周辺は小さな森のようになっており、そのなかでひときわ大きくそびえ立っているケヤキです。高さは約30m、樹冠は30m、目通り直径2.5mに達する大木で、枝枯れが一部ありますが、現在も勢いよく成育しています。







すこし離れた場所から、大欅を撮る。

この場所から撮ったことには、理由がある。ここに遺跡発掘調査のレポートの一部を掲げる。



左端の青い矢印に、大欅の一部が写っている。一面の雪の農地を隔てて、わたしは白い矢印のところに立っていた。画像の中央の左部分は国の重要文化財『馬場家住宅』として知られている豪農の屋敷で、くわしくはここ『馬場家住宅旧灰部屋・松本のたから』などを読んでいただきたい。

手前右の農地が掘り返されて穴だらけになっている。これは『エリ穴遺跡』として知られている縄文時代後期の重要な遺跡から出土中の住居跡である。ここから夥しい数の土製耳飾りが出土していて、わたしは欅に会ったのちに実物を見学してきた。ここは、耳飾りを創った縄文の村の跡なのだ。

そんな場所に聳える(こんにちの)大欅には、先代、あるいは先先代の欅たちがいて、ここが縄文の村だった頃から神としてお祀りされていたのかもしれない、ふとそう思ったのである。さらに書くと、ひとつの巨樹に対して神を見た、というよりも、神の鎮まる聖なる場所、あるいは神の降り立つ特別な空間として、欅の巨樹群が大切に守られてきたと考える方が自然なのではないか、とも思える。ともあれ「はじめに巨樹ありき」なのか、「神の鎮まる場所だから巨樹を守る」おこないの結果だったのか、いまのわたしには判らない。


加えて書く。文化財として保存されている馬場家住宅の敷地の下には、エリ穴遺跡の「未発掘部分」が眠っているのだろうと考えている。今後長期にわたって保存されて行くだろう馬場家住宅が全面的に掘り返されることは無いだろう。建造物の保存などの理由で一部が掘り起こされる可能性はある。そのとき、こんにちよりも遥かに進んだ考古学研究の手法とか知見とかが活かされて、いまだ眠ったままの縄文の村のことを解き明かしてくれるかもしれない。


わたしは、この大欅に会いに行って神を見た。
その神はふるいふるい、日本の文化の最古層に祀られている神の現れなのかもしれない。神を祀ったひとびとは、もういない。しかしいつか、その暮らしの痕跡などから、こころの在り様や考え方の片鱗なんかをわたしたちに教えてくれる日が来るだろう。




エリ穴村のひとびとが遺した土製の耳飾り。様々な意匠が凝らされ、造形の妙を楽しむことが出来る。松本市中山の考古博物館に展示されている。








里の神に詣でる〜諏訪神社(松本市四賀五常)


筑摩山地において、滝山山塊と呼ばれている山域がある。美ヶ原高原の北方高地にあたり、おもに松本上田市境の三才山より北側を指すことが多いようだ。この西面に降った雨粒は会田川となって西へ流れ、明科で犀川に合流する。この会田川の右岸に長野道の橋梁が見え隠れしているあたりに、四賀五常の諏訪明神が鎮まる。会田川の南のほとり、ぼこっと迫り出したような丘陵の突端に北面の社殿を持ち、境内に神楽殿と摂社のいくつかを数える。平成30年3月18日、おなじく四賀地区の七嵐白張神社を参詣したのちに、わたしは会田川に架けられた橋の上に居た。






橋の名も、明神橋。





石段を上り詰めると、こじんまりした境内に社殿が迎えてくれた。作法通りにお参りする。長野県神社庁に拠ると、御祭神は健御名方神、御例祭は9月第3土日。





失礼します、とお許しを得てご本殿の裏に回る。裏と言っても広場続きである。幾本かの古木が神さまの降臨する場所を示すかの如くである。





おおお。根方に道祖神がふたつ、お祀りされている。文字道祖神と言って、信州安曇野、松本界隈では双対道祖神と同じくらいによく見ることができる。





境内には柏の大木があった。御神木とされるぐらいまで立派に育ってほしいと願わずにいられない。









里の神に詣でる〜白張神社(松本市四賀七嵐)


善光寺街道の古いみち筋に刈谷原峠がある。この峠は岡田宿と刈谷原宿の間の難所とされ、つづら折れの山道が続いている。この峠のすぐ東側に、もうひとつ稲倉峠(しなぐらとうげ)という峠があり細い林道が通じている。この林道を松本市三才山稲倉から峠を越え、旧四賀村七嵐に降り立った場所が、この白張神社さんが鎮まる集落である。

社殿は東を向いているが、沢を挟んだ対岸の尾根を睨み据えている訳でもあるまい。






平成30年3月18日、鳥居の下の斜面に福寿草が無数の花を咲かせていた。ここ四賀では、そこかしこに福寿草が咲く。この時期には「福寿草祭り」が開かれるが、わざわざ会場へ足を運ばなくても、ほら。






拝殿へ昇る石段の前に、立派な神楽殿が建つ。一部荒れてはいるが、造りはしっかりしたもの。この近くに住む知人から、コンサートのような催しが開かれたことがあったと聞いた。






神楽殿を背に、拝殿を仰ぐ。





白張神社拝殿。わたしは建築様式というものを理解していないので、これを説明する語彙を持たない。長野県神社庁に拠ると、祭神は健御名方神(タケミナカタノカミ)、例祭日は10月第2土・日曜とある。つまりは松本地方にも多い、お諏訪さまに連なる神さまということだ、とタイプしかけてためらう。

諏訪生まれで茅野育ちのある友人が、お諏訪さまはお諏訪さまであって、健御名方神ではないと力説するのだ。わたしもよく理解しかねているのでここではこれ以上触れないが、上に書きかけた「お諏訪さまに連なる云々」は保留にしておこう。






社殿北側から、境内摂社の祠を覆う建家を見ている。





ずらりと並んだ白木の小祠にまじって、古びた様子の石祠も祀られている。





天井近くに木札が掛かり「山の神別宮」と掲げられていた。





境内にしめ縄なのか、縄を巻かれた老杉。その根方にも石祠が祀られている。





里山に増え過ぎた鹿と猪を除けようと、集落全体が防獣柵で囲まれている。これは白張神社さんのあるこの地区に限ったことではなく、松本平の山際ではどこにでも見られる光景だ。集落側の最初の鳥居と社殿の間に柵を設けたのは別に意図することがある訳ではないだろう。しかし図らずも神さまのおわす領域と人間の暮らす場所を隔ててしまって、却って皮肉ではある。





柵のあたりから北側を見る。爺ヶ岳、鹿島槍、五竜、そして白馬三山と小蓮華の稜線までが見えている。今季も冬山に出かける機会を得ることは出来なかった。





車道に降り立って見上げる。なるほど急な斜面に鎮まっておられる訳である。