2020年2月29日土曜日

枯野ゆくとき


すこしまえのことだ。正月の善光寺参りも無事に叶い、これもひとつの奇跡だと考えた。ちょうど一年前にも近所の観音堂で同じ思いを抱き、そのまま岡田神社の境内に立ち寄った。その日もぶらぶらと散歩に出た流れで同じ観音堂とお宮を訪ね、過ぎ去った一年の日々を振り返った。





このお堂には、この岡田の地を治めていた岡田親義という中世の武将も崇敬したと伝えられる観音様がいらっしゃる。岡田親義は木曾義仲の寄騎(よりき)として倶利伽羅峠の戦いで討ち死にした。観音様はその最後を見届けて、その魂をきっとお救いになったことだろう。

わたしはこの観音様を拝んだことが無い。薄暗い扉の向こうにきっと厨子のようなものが置かれてその中におわすのだろうか。お姿がなくともなにごとかがおわすのははっきりしていて、ここへ来ると必ず手を合わせる。


合掌する我が指が、十本あった。


昨年、一本を落としかけたのを何とか繋げてもらい、九本指の合掌を免れたこともまた奇跡である。もし一本を失っていたと仮定したら、その指はどんな眼に遭うのだろう。医療廃棄物として処理されるのだろうか。薬剤に漬けられてわたしにくれたのだろうか。少し考えてみたがわからない。とにかくわたしの指は、わたしから離されることなく、わたしの手に付いている。





こどものころに読んだ、濱田広介の作品に、蜥蜴の尻尾を描いた物語があった。ねこだか鼬だかに襲われた蜥蜴が尻尾を棄てて逃げる。置いてけぼりにされた蜥蜴の尻尾は、あるじの蜥蜴が迎えに戻ってきてくれるのを待ちながら儚くなる。もし失われたとなれば、わたしの指も同じようにわたしを待っただろうか。

そう考えたとき、絶望的な孤独、という感情、あるいは状況を思い浮かべることが出来た。わたしの指はともかく、蜥蜴の尻尾はまだ救われたかもしれない。待つ、という希望があったからだ。しかし、すべての人にひとしく同じ定めとして、その最後は絶望的な孤独のうちにあるのだ。そう悟った時はじめて、やはり何かに寄り掛かりたい、すがりたいという願いが理解される。





岡田神社は、古宮が古事記にも登場する古いお宮である。やはりなにごとかが鎮まり、わたしを見ておられる。





集落の道祖神。辻に立って邪や厄が入り込むことを防いでくれる。わたしたちは、なぜかなんらかの他者の存在を思い描き、そこに願いを託している。観音様も、神さまも、道祖神も。





枯野ゆく我が影に眼を落とすと、お堂やお宮におわす他者としての「なにごと」かが、確かなリアリティを帯びてきた。わたしが枯野を歩いている。影法師が落ち葉の上に揺れている。影法師はわたし自身だろうか。わたしではない何者かだろうか。棄てられたかもしれないわたしの指は、わたしだろうか。そんなことを考えているわたしが居て、神仏はそれを見ておられるだろうか。





櫟林は尾根伝いにずっと続いている。





丘を下りて小川のせせらぎを聴きながら、拙宅の屋根を眺める。

 売りにゆく 柱時計がふいに鳴る 横抱きにして枯野ゆくとき



2020年2月27日木曜日

春だからロールキャベツを作る


ある春の日曜日の、わたしの朝食。スパゲッティ250gを茹で、レトルトのミートソースを掛けてある。若い頃ならば300gをぺろりといけたが、ミドルの胃袋に朝から300はきつくなってきた。弁(わきま)える、という言葉があるが、まさにその通り。四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う。いや本稿はロールキャベツである。





週末、娘に問う。「ロールキャベツ、食べるかい?」

「え、いいの?」

娘が食べたいとせがむと、父は山に行くのを取り止めてでも厨房に立つ。君の血となり肉となるものだ、父さんが心を込めて作ろう。






芯をくり抜いた春キャベツにラップを掛け、電子レンジに放り込む。200wで10分、500wで4分。葉っぱが柔らかくなると剥がしやすくなるのだ。





これがおやじの手料理のいやらしい部分だ。





鶏ひき肉を使うくせに、ささみを用意している。筋を除いて薄く塩胡椒を振りぶつ切りにしたあと、あんに混ぜるのだ。






ほら、こうして。単調になりかねないひき肉の食感に、ぶりっとした「肉」の歯ごたえ、味わいを挟み込むギミック。もも肉でも構わぬ。早茹ででないマカロニでも良い。





昼を過ぎた。二階でせがれがアイルランド音楽をならしているので、これを言い訳にブッシュミルズを呷ろう。





鍋にロールしたロールキャベツの前身を置いていく。立てる、というメソッドがあるらしいが未だ試していない。未知なる経験に一歩を踏み出せないでいるミドルの情けなさ。




煮込んでいる時間にブレードと遊ぶ。ついに手にしてしまった、YP Taontaの手鍛造によるブランクである。鎚目が残る、鍛冶職人の手の匂いがそのまま打ち鍛えられたようなブレード。タオンタおじいさんは高齢で鍛冶場に入ることも減ったような知らせも聞いた。これは若きお孫さんのたくましい腕が鍛えた品物であろうか。いずれにせよYPの刻印がある以上、タオンタおじいさんが認めたブレード、真のプーッコブレードであることは間違いない。フィンランドのたから、この惑星の至宝である。時間をかけてベベル面をミラーフィニッシュに近いところまで磨いてある。




手前ふたつがラウリのファクトリーメイドのブレード。切れ味はすばらしい。が、正直、タオンタじいさんの鍛冶場で鍛えられたブレードは、鳥肌が立つような、凄絶な切れ味を見せてくれた。





わたしのロールキャベツは、タオンタ鍛冶のブレードのような美しさと奥深さを備えていただろうか。

いや、いまひとつ、深み高みに届かなかったようだ。こどもたちは喜んで平らげてくれたが、ぐぬぬぬ、いまだ修行の道のり半ばと、ミドルは唇をかんだ。








2020年2月22日土曜日

焼きそばの正義を巡る考察

焼きそばに関しては、かなり複雑な思いがある。
幼少期に、母に作ってもらえなかったこと。学校給食で食べた焼きそばはキャベツの芯ばかりが記憶に残っていること。なぜか、焼きそばはわたしの食の記憶の中で、意識の辺境の、なんというかこころの片隅の部分に留められている、幾分ネガティブな体験、そして存在なのだ。

故郷を持たなかったわたしが信州まつもとの街はずれに暮らすようになって、地域のつながりを持つことができた。地区の伝統行事とか、公民館の催事とかそんなつながりである。つながりの中でわたしは何故か「焼きそば担当」という位置づけに指定され、同い年のK君とふたり、年に数回、焼きそばを作るのである。作ると書いて違和感を覚えるのが、夏祭りでは合計500玉の麺を使う。鉄板2台、ひとり250玉。長蛇の行列を前に二時間をほどこれをやると、数日間は腕が上がらない。背後には肉野菜係、ソース係、パック詰め担当、会計などと七人ほどのスタッフが仕事をする。わたしとK君はひたすら焼くだけである。地獄としかえ云えない。

焼きそばへの恨みつらみを書いてもしょうがない。とにかく250玉の焼きそば仕事のせいで、わたしはソース焼きそばを拒絶するようになった。あんなもん、喰えるか!






ある晩、こころの奥底に潜むマリーがわたしにこう囁いた。

 ソース焼きそばが嫌いなら、あんかけ焼きそばを食べれば良いじゃない?

さすがのマリー。わたしの意識の中にも革命を起こしてくれた。求めたのは、売り場で百円もしないレトルトの中華丼のもとである。これを麺にかければあんかけ焼きそばに変ずるではないか。しかも手が掛からない。





麺はあらかじめ電子レンジで温めておくと良い。ふた玉、500wで30秒。これをテフロン加工のフライパンで数分焼く。焦げ目が付いてきたら、たっぷりのごま油をたらーり掛け回して火を止める。加熱すると香りが飛ぶので、気をつけて。




温めておいたレトルトパウチを開封し、焼いた熱い麺に乗せるのである。あんかけは正義。あんかけは真善美。あんかけこそ、人生の目的なのかもしれない。

かりりとした麺の歯触りに絡むあんかけを味わいながら、わたしのこころにはいろいろな事象が去来していた。母さん、焼きそばのことであなたを責めて済まなかった。早稲田通りの中華屋さん、所持金が足りない学生のわたしに「大盛りにしておいたよ」って作ってくれた店長さんありがとう。能登の海辺のコンビニにて、歩き旅のわたしが求めたカップ焼きそばに「肉まん夜中に処分するんすけど、やじゃなかったら食べます?」とおまけしてくれたバイトさん、感謝!

わたしの人生のさまざまな場面で起きた出来事の、焼きそばをキーワードに蘇って来た記憶の圧倒的なヴォリュームに潰されそうになりながら、わたしはあんかけ焼きそばを完食した。






むろん、レトルトに甘んじて手抜きをするだけではない。

もっと野菜を! たましいがそう叫ぶ夜がある。



これで我が晩飯、一人分である。




高らかに叫べ、人生の歓びを。




どこまでも香れ、ごま油よ。たましい焦がして。こころ燃やして。




青葱と白胡椒、そして和芥子のファンファーレが、あんかけ焼きそばを祝福する。我が人生、焼きそばに一片の悔い無し。




2020年2月16日日曜日

寒の底で牛筋を煮る


二月だというのに、雨音がしている。それでも底冷えのする日々はあった。少し前、高校生の倅が「野山を少し歩いてこようよ」と誘ってきたので出かけると、古い街道の峠で冷えに冷えた。峠から下りてきてからまちにもどり、肉売り場で国産の牛筋肉を買い求めた。



鍋に湯を沸かし、塊ごと放り込む。ぐらぐらと煮立てて半時間ほど煮る。この湯は全部流してしまい、牛筋をよく洗ってからひと口に切る。





根菜と葱の青いところを用意し、ここへ筋肉を加える。味付けはまだのことで、日本酒を二合ほど注ぐ。灰汁をすくいながら、燗酒を飲んでいた。普段は冷やでちびちび舐めるが、峠歩きで冷えきっていた身体が「熱いのを」と求めてきたのだ。





アルミ箔で落とし蓋をしておき、ひと風呂浴びて来る。ようやくに暖まった。鍋の中では素材たちが愉しそうにふつふつ云っている。蜂蜜、黒砂糖、味醂を入れて、日本酒をまた一合ほど足してやる。風呂上がりだ、わたしは冷やで口に含んだ。忘れかけていた椎茸を鍋に投じる。

牛筋が柔らかくなったところまでじっくり炊く。二、三時間は炊いただろうか。味見するととろり、ほろり、と牛筋が応えてくれた。一度冷まさねば、本来の味わいは得られない。あら熱を取り、容器に移して冷蔵庫へ。何日かに分けて少しずつ楽しもう。





葱を刻んで乗せ、善光寺さん御門前の八幡屋磯伍郎を振る。寒の底の夜は、こうしたのが一番嬉しい。