2020年2月22日土曜日

焼きそばの正義を巡る考察

焼きそばに関しては、かなり複雑な思いがある。
幼少期に、母に作ってもらえなかったこと。学校給食で食べた焼きそばはキャベツの芯ばかりが記憶に残っていること。なぜか、焼きそばはわたしの食の記憶の中で、意識の辺境の、なんというかこころの片隅の部分に留められている、幾分ネガティブな体験、そして存在なのだ。

故郷を持たなかったわたしが信州まつもとの街はずれに暮らすようになって、地域のつながりを持つことができた。地区の伝統行事とか、公民館の催事とかそんなつながりである。つながりの中でわたしは何故か「焼きそば担当」という位置づけに指定され、同い年のK君とふたり、年に数回、焼きそばを作るのである。作ると書いて違和感を覚えるのが、夏祭りでは合計500玉の麺を使う。鉄板2台、ひとり250玉。長蛇の行列を前に二時間をほどこれをやると、数日間は腕が上がらない。背後には肉野菜係、ソース係、パック詰め担当、会計などと七人ほどのスタッフが仕事をする。わたしとK君はひたすら焼くだけである。地獄としかえ云えない。

焼きそばへの恨みつらみを書いてもしょうがない。とにかく250玉の焼きそば仕事のせいで、わたしはソース焼きそばを拒絶するようになった。あんなもん、喰えるか!






ある晩、こころの奥底に潜むマリーがわたしにこう囁いた。

 ソース焼きそばが嫌いなら、あんかけ焼きそばを食べれば良いじゃない?

さすがのマリー。わたしの意識の中にも革命を起こしてくれた。求めたのは、売り場で百円もしないレトルトの中華丼のもとである。これを麺にかければあんかけ焼きそばに変ずるではないか。しかも手が掛からない。





麺はあらかじめ電子レンジで温めておくと良い。ふた玉、500wで30秒。これをテフロン加工のフライパンで数分焼く。焦げ目が付いてきたら、たっぷりのごま油をたらーり掛け回して火を止める。加熱すると香りが飛ぶので、気をつけて。




温めておいたレトルトパウチを開封し、焼いた熱い麺に乗せるのである。あんかけは正義。あんかけは真善美。あんかけこそ、人生の目的なのかもしれない。

かりりとした麺の歯触りに絡むあんかけを味わいながら、わたしのこころにはいろいろな事象が去来していた。母さん、焼きそばのことであなたを責めて済まなかった。早稲田通りの中華屋さん、所持金が足りない学生のわたしに「大盛りにしておいたよ」って作ってくれた店長さんありがとう。能登の海辺のコンビニにて、歩き旅のわたしが求めたカップ焼きそばに「肉まん夜中に処分するんすけど、やじゃなかったら食べます?」とおまけしてくれたバイトさん、感謝!

わたしの人生のさまざまな場面で起きた出来事の、焼きそばをキーワードに蘇って来た記憶の圧倒的なヴォリュームに潰されそうになりながら、わたしはあんかけ焼きそばを完食した。






むろん、レトルトに甘んじて手抜きをするだけではない。

もっと野菜を! たましいがそう叫ぶ夜がある。



これで我が晩飯、一人分である。




高らかに叫べ、人生の歓びを。




どこまでも香れ、ごま油よ。たましい焦がして。こころ燃やして。




青葱と白胡椒、そして和芥子のファンファーレが、あんかけ焼きそばを祝福する。我が人生、焼きそばに一片の悔い無し。




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