2019年5月4日土曜日

たらの芽を摘みに

うららかな春の朝。わたしは朝食を終えると、新しいMoraKniv Classic  2/0を腰に帯びて野遊びに出た。近くの里山に、山独活を堀りに行くのだ。ついでに尾根を登って、たらの芽を摘んで来よう。



新しいナイフはこころを浮き立たせてくれる。わたしは空と、微風と、せせらぎと挨拶を交わす。市街地に刃物を帯びて闊歩するわけには参らぬが、拙宅から裏山までは果樹園と田畑である。そこいらに居る人は誰もが、つまりは野良仕事中で、腰に鉈か鎌か鋸か鋏か包丁かの、いずれかふたつぐらいをぶら下げている。3インチに満たないMoraKniv  Classic 2/0ぐらいで咎められるものでもない。しかし鋭いブレードをひそかに隠し持っていると誤解されかねない。そんなわけでわたしは、使う予定こそないが、やむなくもう一本のプーッコナイフIivarin Puukkotehdaと七寸の土佐東周作青紙入鋼の剣鉈を一緒に腰に下げた。明らかに山仕事の装備である。これで赤色回転灯の接近などを懸念することなく、山に分け入った。




山桜も散り始めている。里山の森は一斉に芽吹き、春の訪れを喜んでいる。手前に写っているのはカンゾウの群落。お浸しやぬたで味わう山菜だが、少し遅いようだ。




杣道は尽きて、やがて薮漕ぎとなる。この森にはハリギリが多い。ウコギ科でタラノキやコシアブラとは近い種である。芽はタラの芽と同じように食用になるが、アクも苦味も強い。その野趣溢れる味わいを解るほどに、おのれが出来ていない。人間の苦味も、足りていないのだ。




こういう小さいのは残しておく。次の人が来週に摘むかもしれない。誰も訪れず、大きく枝葉を広げるかもしれない。そうすれば幹は広がり秋には種もこぼれる。




近所の山友の家族の分もこれで賄える。必要以上に摘むことはない。山の幸を、山の神様から分けていただいているのだ。



たらの芽を「摘む」と書いた。
理由がある。Youtube 等でも見かけるが、たらの樹を鉈でスッパスッパ斬っていく不心得者が居る。山のたらの芽を頂くのに、鉈を使うのは許されぬ所業なのだ。不心得と書くより不埒者と蔑むべき、山も自然も理解できていない、恥ずかしい行いなのだ。




この写真をご覧いただきたい。


これは一週間ぐらい前に、誰かが摘んだ樹頂の芽。よく見ると左右に二番、三番の芽が顔を出している。幹を伐らずに芽だけを摘めば、次が出る。枝葉が茂る。伐ってしまえばその幹は枯れる。己の目先の欲望だけで、樹が枯れても構わないというのは、あまりに身勝手である。




この日の山の恵みは、お約束の天ぷらと、オリーブオイルで炒めた洋風の味わいでいただいた。噛み締めるとほろ苦さと甘みが響き合い、春の真ん中に居ることに気付かされた。







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