2020年3月2日月曜日

青葱は食卓の主役である。


2020年2月28日金曜、二十一時過ぎ。いつもならその男は眠りに就いている時刻であるが、その日は夜食を拵えている。先日に書いた、中華丼の素を焼きそば麺にかけたひと皿である。半熟玉子の上に降りかけられた白胡椒は、北アルプスの稜線の雪のように美しい。しかし何よりも眼を引くのは、はつらつとした青葱の姿である。






翌日の2月29日土曜日、その男、娘のために鶏そぼろをつくり、ちょいと分けてもらったそぼろへ出汁をかけ回し、ぬくめた絹豆腐を盛った。そこへ青葱があざやかなまでに彩り堂々として、豆腐とひき肉を圧倒している。昼前というのにマグは濃いめの水割りで満たされているようだ。





3月1日日曜。こどもたちの朝食は、そぼろたまごご飯である。紅いラー油のアクセントが霞んでしまうほど凛々しく君臨する、青葱。存在感は偉大である。





昼を迎えたこどもたちに供されたのは、炙った手羽先とブロッコリーを添えたカレーうどん。ここでもやはり、青葱が高らかに雄叫びをあげている。





そして宵の酒肴のひととき、男は煮込んだ白モツと愛を交わし合っていた。その白モツたちを蹴散らすかのごとく舞い降りたのは、やはり青き葱たち。





その夜、締めにラーメンを食しているその男、もちろん銘柄はハウス食品の『うまかっちゃん』にほかならない。自作の鶏ハムが健気に添えられ、すり胡麻をたっぷりと振りかけてはいるが、ここでも青葱の存在感は際立っている。







在宅で過ごす2月2日月曜の昼めし。その男の食卓には、あの白モツ。食卓ではなかった。キッチンのガス台前に陣取って、煮炊きをしながら呑んでいる。平日なのにどうせ仕事なんかしないのだからと、朝のうちからチューハイを傾け、大雪渓生酒を一本空けているのだ。濃いめの水割りに切り替わるのに、多くの時を必要とはしないであろう。





続けて土鍋にだし汁を張り、木綿豆腐と鶏もも肉を削ぎ切りにしたものを炊いている。えも言われぬ深い香りが立ち上り、男は鶏鍋の中身を椀に盛る。やはり主役は青葱のようだ。






半月前の台所飲みの様子である。青葱をこころゆくまで愉しむには、鶏肉でも添えてやろう、という趣向であろう。















2 件のコメント:

  1. 暫くぶりに覗いてみれば、新しい記事が3つも。
    逝った猫のことを思ってメソメソしてる自分がはずかしくなります。

    確かにネギは大事、というか凄い。青ネギはほとんどなんの料理でも、影の主役、いや隠れた真打ちですね。因みに、日本では、青ネギといっても、いろいろあって料理によって微妙に種類を変えるなんて小技ができるんでしょうね。浅葱なんてのもありますよね。

    こっちはそんなものできないのでなんでも同じ青ネギですよ。微妙に白い方を増やしたり、緑の方中心にしたりぐらいが精一杯のこだわりでしょうか。

    因みに、切れる包丁でネギの緑のところを潰さず丸いまんまきる気持ちよさがまたまた最高ですよね。

    この写真の緑のネギたちも見事に丸い断面をたもったままたち切られてますね。
    師匠の包丁、只者ではないですね。それとも例のナイフですか?

    ネギもさぞ喜んでるでしょう。

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  2. アラスカの兄貴!
    近所でも新型の風邪とかがはやってるようで、そんなことに気を取られて油断しておりました。書き込み有り難うございます。

    あんかけ焼きそばと青葱の正義に付いて深く考えるこのごろでありますが、やはり青葱は正義そのものであります。豚骨ラーメンで有名な「一蘭」という店があるのですが、ここの注文票の用紙にこってり度とかを書き込むのですよ。葱の選択肢に「白」「青」があったのを見まして、脳天を錐揉みされるような衝撃を受けました。わたしが生を受けた九州発祥のラーメンにおいて「白」の選択肢が存在するとは!
    まあ、多様性とかそんなこんながパンデミックな世の中の様で、「それもありかなあ」と受容しつつある自分にも驚かされます。歳を重ねると許容できることが増えて来るものですね。

    葱の断面でありますが、いやはや、家中の刃物という刃物、ノコギリ以外はすべて研ぎまくっておりまして、触れるだけで切れる刃物に埋め尽くされております。枕元に鞘から抜けた鋭利なナイフが転がっているのを見つけた朝、という冷や汗の続く日々であります。そのくせ、葱が繋がっているのも写っていますが、これは右手が不自由ということでお許しくだされませ。

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