2018年5月20日日曜日

胃袋と風景


拙宅の辺りでも田植えが始まっている。
おや、いまごろ?
そうなのである。気候とか品種ごとに適した時期というのがあるのだろうが、おおむね今頃である。拙宅の北側に広がる一面の田んぼに、半分だけ水が入る。半分というのは、毎年コメを植え付けるのではなく、コメを休んで蕎麦、麦の栽培を挟むからだ。1970年頃から「コメ余り」などという罰当たりな状況が続いており、本気を出してコメを作ってはいけないという、ニッポンの水稲栽培史の中でも異常事態と言わざるを得ない。







これは5月11日、安曇野市豊科の田んぼから常念への落日を眺めているところ。古代、北九州の海人族であった安曇族がこの安曇野を拓き、いつの間にか消え去った。彼らもコメを育てて食糧としたのだろう。いまとは品種が異なるだろうから事情は違えど、たとえば常念に落日を見るころを田植えの日としたのだろうか。





田んぼに水を入れれば、田んぼから落ちて来る水もある。そのために近所の小川は泥色に濁る。ここはあとひと月ほどすると蛍が舞うところで、シジミやカワニナが棲む澄んだ流れである。そしてこの濁りも、田を潤す水ゆえなのだから、これはこれで美しい季節の風景なのだ。

蛍が舞い始めると、梅干し作りの支度が始まるのでわたしは落ち着かなくなる。






駆け足でわたしの傍らを通り過ぎて行く季節の移ろいのはざまから、また恵みを頂く。いただいた恵みは天ぷらと言う美しい料理に昇華する。こういうのは酒が捗り過ぎて困る。






大酒した翌朝は、わたしは却って空腹を覚える。前夜に散々飲み喰いしたはずなのに、胃袋が欲するのである。残りの天ぷらをトースターに放り込み、どんぶりに飯を盛る。めしは出来るだけ高く盛りたいが、限度もある。一合半ぐらいで我慢をして、そこへ温めた天ぷらを乗せ、甘めの蕎麦つゆを垂らし、いただくのだ。

ご飯の甘さを噛み締めながら、豊葦原瑞穂の国に生まれ育ったことに感謝する。この星に米ある限り、わたしはどんぶりを手放すまい、そう誓う。加えてコシアブラもタラノメも米の美味さを「これでもか」と引き立てる。やはり一合半では足りず、ごはんをそっと追加する。





書斎の前の一輪草が満開を迎えた。昨夜もウイスキーが過ぎて寝過ごしたのである。昼ちかくに目覚め飯の支度をする。家族は誰も居ない。炊飯器のふたを開ける。保温釜がない。シンクに放り込まれている。部活に行った坊主たちが残らず食べて行ったのだ。






わたしはやむなく、300グラムのスパゲッティーニを茹でた。ミドルが三人前を食するというのも如何なものか、という思いが横切ったのだが、空腹には四の五の言っていられないのだ。

「米」を食することが出来なかった一抹の寂しさも、胃袋を満たしてしまえば「知るか」である。





うむ。米ばかりを作ってる訳にはいかぬのである。麦畑の青きそよぎも美しいものだ。今朝はコメではなくムギを食した後ろめたさを、麦畑の風景を前にぬぐい去ろうとしているのだ。

最近の考古学研究の成果を眺めると、水稲栽培以前、縄文時代の中頃には、大豆やエゴマといった雑穀栽培の痕跡が発見されていると聞く。それも、大粒のやつだけを選んで増やした形跡が見られるとか、なかなか有能なのである。三内丸山の縄文人も、栗を植えて利用するにあたって実の大きい樹から次の世代を選んだらしい。「栽培」と「農耕」の境界線がどこにあるかは知らぬが、われらが先祖たちは原始的な「採集」だけに依存していた訳でもなさそうである。

博物館などで見かける縄文のムラの復元ジオラマやイラストレーションには、住居の周りに森が広がっていることが多い。だがもし上述のように、縄文の人々が植物栽培を盛んに行っていたとするならば、ムラの一角には雑穀畑のような空間が広がっていたはずだ。森の中のムラではなく、こんにちの山村のような、明るく開けたくらしの風景があったのかもしれない。



風景は、胃袋に依存する。胃袋が欲する食材が変われば、風景も変化する。百年後、あるいは一万年後に、わたしたちの子孫は何を食べて暮らしているのだろうか。そのために、風景はどのように変わって行くのだろうか。思い巡らそうとして、朝飯がまだだったことに気付かされる。せめて、美しき田園の風景が永らえるよう、どんぶりに高々と飯を盛ろう。















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