2018年5月4日金曜日

大洞山(松本市・筑北村境1316.0m)


旧四賀村の北寄りに会田宿と呼ばれる、善光寺街道の宿場町がある。この宿からは安曇野へ下る道のみならず、北信濃に至る善光寺街道が通じ、また東へ国道143号の会吉トンネル、青木峠を経て塩田平に出ることができる。いわば、筑摩の地と北信濃、東信濃をむすぶ古代からの交通の要衝である。この会田宿から少し西に入ったところが原山集落で、原山集落から仰ぐような位置に大洞山(1316.0m)がある。

地形図には登山道は記されていない。いないが西側の風越峠から明瞭な踏み後を追って山頂を踏んだのは10年前の早春のことである。今回は、南側から這い上がってみようと考えていた。原山集落の奥の「槙寄」と地名が記されたところから、沢から山腹にのびた実線がある。林道だろうと見当をつけて、ここから尾根に上がることにした。




平成30年4月22日、わたしは原山集落に居た。ここは、なんとも美しい山里である。沢の水を引き込んだ水路の響きに、田畑を耕す季節の到来が感じ取れる。民家の庭先の梢には芽吹きが鮮やかである。色とりどりの花が咲いている。大地と共にある人々の暮らしの一場面を見るようだ。山村の小径は、徐々に細まってついには山に分け入る。その、里と山には明快な境界というものがあって、こんにちでは鹿や猪を里に入らせないための防獣ネットに象徴される。しかし古くからは、この境界は人の住む世界と、神や祖霊が住む世界を分けていた。だから人は、山に入る時に「入らせてください」と頭を下げ、降りてくれば「ありがとうございました」と言うのだ。そしてそこには神が祀られる。


この朝も山に入るため、わたしは防獣柵のゲートを開け、そして締めた。その気配に気付き、大きな鳥が羽ばたき舞い上がる姿があった。大きな鳥、よく見る鳶(とんび)の倍くらいはありそうな、鷹か鷲の類いだろう。彼は、一羽の雉子を狩り、その身体を割いて食餌を楽しんで居たのだ。そこへわたしが現れたので、彼は高い樹の上にでも逃れたのだろう。雉子の死骸はまだ温かそうであった。山の掟が支配する、異界に入ったことを印象づけられた瞬間だった。




わたしは立て続けに、山の世界の乱気のようなものに捕らえられたのだろう。狩りの現場を見た直後、数十歩はど足を進めてからだ。視線のような、何かを感じたわたしは視線を巡らせて全身の肌が粟立った。行く手に、古びた鳥居と、石祠が佇んでいたのだ。いよいよ山に分け入ったな、と思ったその時に祠を見たのだ。山ノ神だろう。柏手を打って、「入らせていただきます」と申し上げる。素通りできるはずなど、なかった。







林道から山頂方面を仰ぐ。林道の終点からは、道が無いのは判っていた。薮漕ぎになるのだろうか。不安は無いが、未知への懸念はあった。





こんな廃林道を行く。倒木で随所が塞がれているが、秋の松茸シーズンには軽トラックが入って来るのだろうな。






中央は虚空蔵山という1139mのピーク。トリミングして補正を掛けてある。虚空蔵のことは煩雑になるので本稿では触れないでおく。左に大滝山から蝶ヶ岳の稜線が見えていて、その上に前穂、奥穂、涸沢岳、そして北穂が顔をのぞかせている。虚空蔵の奥に常念が聳え、横通との間に南岳の一部、横通のあたりに中岳が重なって、槍は東天井大天井に遮られるようだ。


林道は広場のようなところで左右に分かれていた。はじめ左へ進むと100mほどで道型が消えている。戻って右を拾うとこれも消えた。だが尾根に乗るまでもうすぐ、と判っていたから灌木をかき分けどんどん登る。鹿の踏み跡が錯綜していたからこれも使わせてもらう。





この松の佇む地点で尾根に乗った。尾根上に薮はなく、どこでも歩けた。






またしても突然、という表現が当てはまるほど唐突に、呼びかけられたような気がした。すぐ目の前に近づいた高まりを見れば、そこに石祠が祀られていた。地形図に1264の標高点が記されているピークである。この石祠は、入山地点に祀られていた山ノ神の奥社ではないだろうか。

下山時に知ったことだが、原山集落には「大洞 秋葉 神社」と扁額を掲げた鳥居があった。これが「大洞秋葉神社」なのか、「大洞神社・秋葉神社」なのか、社殿には詣でていないので確証がない。だがどうも後者と考えて秋葉神社はのちに合祀されたと考えてみる。すると、集落のお宮が里宮、朝に通った石祠が奥社、1264ピークの石祠が嶺宮と位置づけられるかもしれない。実際、奥社の石祠を正面から見ると、その先には1264ピークがある。





すぐ北に磐座のような巨岩。基部を確認していないのだが、10m近くありそうだ。石祠とのつながりが気になるところだ。次回にはこの巨岩の基部を観察しなければなるまい。もしこれが磐座であるならば、本来祭祀が行われる場所はこの岩の前であろう。想像に過ぎないが、年月とともに磐座の重要性が薄れ、すぐ側のピークに石祠が祀られた、というようなことが起きたのかもしれない。






痩せ尾根を行く。これは振り返って撮っている。左右はそこそこ切れ落ちているが、樹林があるため高度感はさほど無い。しかし足元を誤れば怪我では済まなそうだ。





原山集落からも見えた、山頂南のマイクロウエーブ反射板。誰が設置者なのか、ふと眺めれば「中部電力」の表示があった。





反射板を過ぎて小さな鞍部を抜け、ひと登りすれば大洞山の山頂である。三角点と手製の山頂標識が迎えてくれる。篤志家と書けば良いのか、こんな山を訪れる人たちも居るのである。






ところが、山頂の三角点は角が削られて損傷甚だしい。訪れる人とて稀なこの山で、誰が一体....



山頂からは西に向かう。1280mの小ピークは巻く。ここで尾根は南西と北西に分かれる。





南西尾根。この尾根を下ると風越峠に至る。むかし一度歩いているので、今回は一本北寄りの北西尾根を下ってみることにした。





失敗であった。この尾根の様子が、想像したものと甚だしく乖離していた。左に松茸山の入山禁止を示すビニル紐、右には檜の幼樹を鹿から守るためだろう、防獣ネットが張られている。この間を歩くのだが、紐やワイヤが障害になり歩けたものではない。





近景は美しくない。遠い北の山々を眺める。美しいものである。





鉄塔の下まで足を運んだが、ここは眺望が叶わない。珈琲道具を携えて来たが、気温が高すぎることもあって、やめておこう。





尾根から下降する。送電線巡視路を辿る。





県道303号に降りた。遠望は燕からケンズリ、餓鬼岳と唐沢岳への稜線。





展望台のような場所がある。筑北村の山村風景の彼方、北葛岳、針ノ木から後立山、白馬と続く白銀の稜線を眺める。帰宅して知ったことだが、静岡のトオル兄貴がはるばる遠見尾根に来ておられた。この陽気では雪が腐って大変であったろう。遠見でもどーんどーんと雪崩の響きが凄かったようだ。





山の神さま、ありがとうございました。お供えでございます。むしゃむしゃむしゃ。





風越トンネルを抜けよう。トンネルに向かう道肩には立派に育ったたらの樹が生えていて、樹頂には太い芽が出ている。手を伸ばすこともなく、眺めて味わいを思い出し、それでよしとした。





トンネルを抜け、車道から離れて森の中に降りて行く。見上げれば散りかけの山桜が美しい、沢沿いの荒れた道を拾う。地理院地形図には破線があるが、実際には道型はとぎれとぎれである。それでも、やがて集落に出た。





やはり見つけてしまうのだ。なにごとかがおわします気配を察し、そっと薮を回り込むと小祠が、とうことがしばしば起きる。この祠も、害獣よけの柵の側におわした。里と山と、すなわち異界との境界を守っておられるのだ。





山里に満ちる春。





原山集落の大洞秋葉神社の鳥居。長野県神社庁によると、名称は『大洞秋葉社』のようだ。御祭神はスサノウノミコト、カグツチノミコトの二柱。社殿には詣でずに通過した。本来は社宮司明神(みしゃぐち神)などを山ノ神としてお祀りしていたところに、記紀の神々に上書きされ、さらに明治期の神社合祀の流れを経ているのかもしれない。

帰宅後に気になって調べたら、祭礼では「お船」が曳航されるようだ。お船を使ったお祭りは、安曇野松本平によく見られるお祭りで、穂高神社のそれがよく知られている。古代の海人族であった安曇族が自らのアイデンティティを忘れぬために行われてきた、とされる。山国に定着しても、自分たちはあくまで北九州の海を起源とするのだ、という誇りの現れである。

そのお船の曳航がここ四賀原山の地にも伝わるというのは興味深い。安曇氏が消え去った理由も時期も、詳細は何も残されていないのだ。





原山集落から振り返る大洞山。反射板から少し離れて右の突起が石祠のピーク、左となりが山頂である。





いい感じの道祖神がおられた。この集落の道は善光寺街道の脇道と聞く。すると、わたしが辿ってきた沢沿いの荒れた道が、いにしえの峠道だったのかもしれない。





スタート地点に戻った。たんぽぽの咲く会田川のほとり、遠くに望む稜線は常念山脈南部の天狗岩から黒沢山、大滝山蝶ヶ岳のライン。春の真ん中を感じさせてくれる風景である。移ろう時の狭間を漂いながら、遠い歴史の「地層」の下に埋められた出来事の欠片が、いろいろと語りかけてくる、そんな半日の山遊びだった。山の神さまありがとう。




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