2019年3月11日月曜日

三才山 鎮守社跡


三才山地区に、本村という集落がのどかな山村たたずまいを見せてくれる。御射神社秋宮が鎮座する、とても景観好ましいところである。女鳥羽川の対岸を国道254号が走るが、集落は静かである。三才山とは諏訪信仰で初秋のお祭りが行われる「御射山」であり、御射神社は諏訪周辺に土着の神として祀られている「ミシャグジ神」である。であるが本稿で諏訪明神とミシャグジ神のことについて書くと袋小路に入り込んでしまう。わたし自身、未だこの深遠なるテーマには近づけずにいるのだ。



この本村集落の辺りをGoogle Map で眺めていたら、「鎮守神社跡」というマークが現れた。わたしは最近、Google 社の完全な監視下に置かれている。このblogもGoogle アカウントで書いており、タイトルにも本文中にも「神社」が頻出。画像データには赤い鳥居がたくさん写っており、わたしが使用する検索ワードは「古宮」「奥社」とかそんなのばかりだ。わたしは坊主頭を15年以上続けているから美容院を検索しない。だからGoogle Map にヘアサロンを表示する替わりに、神社系をやたらリコメンドしてくる。

そんな経緯があって、地元の人も知らない本村の「鎮守神社跡」を地図上で知ることになった。





気になって、ある週末に現地へ赴いた。そこは、枯れすすきが風に揺れる山林だった。





案内板に書かれていた小祠は確認できなかったのだが、「腹神様とも言われ、幼児がお参りすると腹を病まない」の一説が印象的だった。

帰宅してG社に「腹神様」とはなんぞ、と問うたら、「はらやまさま」或いは「みさやまさま」と関連付けて色々教えてくれた。最大の驚きは、「はらやまさま」も「みさやまさま」も、固有名詞ではあるがほぼ一般名祠的に各地で行われている年中行事であり、また神社の祭礼だったことだ。

なんと、諏訪明神の奥社の「御射山社」を勧請したのが当地の御射神社、という認識でいたのだが、「はらやまさま」も「みさやまさま」も信州各地で古くから行われているらしく、その事例を知ることができた。実はここで「ススキ」「カヤ」「箸」「幼児」「腹を病まない」等のキーワード群にぶち当たり、わたしは困惑している。いまはこれらキーワード群を掘る余裕がないため次の機会に譲るが、諏訪信仰とススキの関連性はいずれ調べておかねばならないようだ。







日を改めて、案内板にあった小祠を探しに再訪する。今回は浅間峠という古道を越えていった。


浅間峠の様子である。いまでは地元民も滅多に使わない道である。かつては松本藩公も参勤交代で越え、また御射神社春宮と秋宮の間を祭礼の押し矛が渡御したという。そういえば、その押し矛もススキの穂を束ねた飾りが付いていた。

なお松本藩公の参勤経路は、後に刈谷原峠を越える善光寺街道に切り替えられる。それでもこの細道は、御射神社春宮と秋宮を結ぶ祈りの道であるから、それなりの重要性を保っていたはずだ。この先にかつて鎮座したという「鎮守神社跡」とは、この浅間峠越えの道を見下ろす高台である。神社跡と古道とどんな関わりがあるのだろう。




浅間峠を下って本村集落に近づくと池がある。正面に戸谷峰を間近に眺め、春には満開の桜が天を覆う。浅間温泉に棲み暮らした時期に、酒瓶を携えて来たことがある。一升瓶を空にして帰りに峠へ登り返すのがえらいこっちゃで、帰宅した記憶がない。






さておき前回発見できなかった小祠を探そう。見上げれば、すぐそこに見えていた。





赤松の生えた斜面に、東南東を向いた祠がおわした。何かを書き付けたお札のようなものが見えたが、そっと眺めるに留めておいた。





祠が向いておられるのはどこだ?




中央のこんもりした森が、御射神社秋宮である。案内板には秋宮に合祀されたと書かれていたが、古い鎮座地からいまに鎮まる場所を眺めておわすようにおもえた。




これが秋宮さん。以前に書いたが、秋の祭礼の時にススキの穂を束ねた飾りを見た。また秋宮の奥社とされる「のっこば奥社」では、祭礼のススキを採る場所との説明があった。



近所のお宮である御射神社のことが、ますます謎めいてきた。諏訪信仰とススキのことも含めて、随時加筆していこう。









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