2019年3月3日日曜日

芥子望主山で考えた。

やがて消えゆくもの。去り行く定めのもの。それはわたし自身のことであり、わたしが知りうる限り全てのもののことである。酔って書いているのではない。土曜の午後とはいえ、これをタイプする間、モルトを嗅ぐのを我慢しているのだ。

この辺りの郷土史を研究している方々の発表を見聞きする機会があった。善光寺街道とも北国西脇往還とも呼ばれる街道の宿場町である、筑摩郡岡田宿界隈の古代におけるさまざまな事柄である。平安時代初期の歌人で、小倉百人一首の「参議篁」で知られる小野篁に関連する史料から、同宿場町周辺の歴史を考察、検証している。なかでも、式内社である岡田神社の起こりと移り変わりについてのことがらに興味を覚えた。

そしてある春の日にわたしは、岡田神社につながる古いお宮の跡地と考えられている場所に出掛け、その往き帰りに去来した想念をここに書き残しておく。うろ覚えの事柄に起因する間違いがあるかもしれない。酒毒に冒された脳がやらかしていたらご指摘いただきたい。







自宅からも程近い塩倉池のほとりから戸谷峰を眺めている。あの山のことは、ここでもしばしば書いている。当地の風景において、独立峰としてかなりの存在感を際立たせているが、なぜか山頂の祠もなく祈りの痕跡も感じられない山である。




さて芥子望主山に向けて歩き始める。芥子望主山とは、岡田地区の一角の高まりで、古代に焼き物の一大生産地だったそうだ。芥子坊主と書かれることが多い。

行く手に火の見櫓のある集落の佇まいが好ましい。丘の上には古刹『塩倉山海福寺』の観音堂。帰路に寄ることにする。




おや。神幟を掲げるとは、この奥にお宮があるのか?

これから向かおうという古いお宮の跡では、いまでも神さまがおわしてお祀りされているということか。結果的には、途中に下記の路傍の神さまがおわした訳であるが、お宮はなかった。わたしには謎である。




路傍におられたのは青面金剛像。いわゆる庚申信仰の守り神さまである。わたしには庚申信仰のことはまだよく解っていない。お隣の杉っぱを被っておられるのは三峯さんだろうか。




なかなか立派なお姿である。




竹薮の小路では竹がきゅうきゅう鳴っていた。おおむかし、ひとはその声に霊的な、カミの存在を感じたことだろう。天地にカミが満ち充ちていた時代があったのだ。

この先には、池がひとつあるはずだ。情報によると塹壕上に抉れた道形が残っていて「十分ぐらい登ったところ」が目的地である。




道祖神のお出迎えである。

ここは集落の山側の境界に当たる。道祖神の起源は「山の神」ではないかと考えているわたしにとって、これは貴重な事例となるだろう。隣の小尾根にある海福寺観音堂の裏手にも、山側に道祖神が建てられている。一方、他の集落と繋がる道筋には道祖神がない。これは覚えておこう。




池のほとりから藪がかった尾根に取り付く。




情報の通り、塹壕状になっている。古い時代に頻繁に使われた交通路と考えて良いのだろう。古代、この山には数百とも言われる登り窯が築かれ、その製品は山麓に運び下ろされた。窯で焼かれた器の供給先とは古代の役所である。この岡田地区に信濃の国府が存在した可能性が指摘されている。かつては荷下ろしなどの往来があったのだろうか、いま目の前の道形はそのひとつかもしれない。




やがて平坦な場所に出た。中世の山城とは異なる印象、との話だったが、これは同感である。堀切とか城郭に見られる陰険な雰囲気は見られない。東西に開けて南面する雛壇状のこの場所は、神を鎮めておくには相応しい場所に思えた。





眼下に起点となった池が見えている。

不思議なことだ。まず集落の山側の道祖神。神幟を掲げる向こうにお宮がない。そして尾根に残された古い道形。





その先へ、明るい尾根を登ってゆく。
いま過ぎてきた平坦地は、おそらくお宮の跡地だろう。祭祀されている様子がないことから、集落の神幟の礎とは無関係なのだろう。事前に得ていた情報では、お宮とは塩竈神社の古社という。こんにち松本市蟻ヶ崎の地に鎮座する神さまである。

塩作りの神さまがこの山国の山の中に何故、という疑問符には、こんな解釈を与えるべきだ。日本海べりの上越糸魚川からは、当地に「塩の道」の交易ルートが開かれている。敵に塩を送るの故事で、不識庵謙信が武田領だった松本城下へと塩を運ばせたというあれである。小谷白馬と姫川を遡上しさのさか峠を越え、信濃大町から安曇野を南下して豊科高家熊倉の渡しを過ぎればやがて養老坂である。養老坂を登り切ったところが塩倉集落であるから、集落奥の高台に塩竃神社が存在したことに違和感はない。そう、塩倉の地名は塩の道を来た海産物の集積所に由来するのだ。





しばらく藪こぎを楽しんだら見覚えのある車道に出た。芥子望主の山頂公園が目の前である。




その塩の道を見下ろすように、芥子望主山頂の石像物が佇む。丸い穴が三つ穿たれた石祠、浅間神社碑、御嶽講、そして東を向く地蔵尊。




北側に三角点。





展望台から常念山脈を眺めると、蝶常念の鞍部に中岳が頂を見せてくれる。




戸谷峰、袴越山、その右に王ヶ頭。




遠景は鉢伏山。そして松本市街地を眺めている。

塩の道は何故、犀川に沿って南下遡上せず、高家熊倉の渡しを渡ったのか。松本城下へと向かわず、郊外の岡田地区に入る理由はなにか。

これは、塩の道が開かれ利用されてきたのは、いま考えられているよりも遥かに古い時代からだったと考えられないか。岡田塩倉から南西を眺めると、入山辺の谷の奥に扉峠が見える。そこを越えれば、三峰山麓に和田峠、すなわち石器時代に黒曜石を大量に産出した場所である。和田峠から八ヶ岳山麓に栄えたいわば縄文王国へと塩を運ぶ交易の道があったはずである。五千年前、この列島で最も人口密度が高く、高度な縄文文化が花開いた場所である。すべての道は、八ヶ岳山麓に続いていたはずである。

その頃、いまの松本市中心部あたりは湖の底だった。奈良井川と田川、そして梓川が合流する格好で深瀬湖と呼ばれ、深志の地名のもとである。当地に残る「泉小太郎」伝説も、この深瀬湖に因むのだろう。塩の道が真っ直ぐ南下するためには、この湖が行く手を阻んだのである。これがおそらく、高家熊倉の渡しと養老坂の存在理由だろう。どこまでも広がる湖水を渡る必要はなく、道筋は丘陵を越えてここ塩倉を中継地とし、八ヶ岳へと向かったはずだ。





御宝殿遺跡の案内板が立つ石祠。陸奥塩竃神社跡との説明がある。岡田神社柴宮の奥に鎮まる「柴入宮」と呼ばれていたとある。先ほど訪れた尾根上の平坦地もまた塩竃神社跡地とされる。両者の関連性はわたしには謎である。ここから東寄りに下ればすぐに、式内社の岡田神社が鎮座する。その岡田神社のこともよく解らない。延喜式に名を連ねる古社であり、そのさらに元となるお宮が伊深地籍に八幡宮として鎮座している。この八幡宮はなんと古事記に登場するというから、諏訪明神と同じく最古級の神社と言えよう。




扉峠方面と鉢伏山を眺めながら、伐採された山腹を下る。





足下の岩は礫岩だ。当地はむかしフォッサマグナの海の底で、その海底堆積物が隆起していまの地形がある。礫岩は海岸か河川の堆積物だろうから、浅い海だった頃のものだろうか。チャートのような固い小石は、西の蝶ヶ岳辺りから運ばれてきたのだろう。小石が汀で波に洗われて、こんなに丸くなったのだ。とすればこの礫は、三億年ぐらい前からプレート境界の海底で作られていた付加体コンプレックスというやつの欠片だ。右の丸いのは砂岩で、これは海の底の新しいやつだろう。新しいと言っても数百万年、それくらい昔のものだろう。






やがて山を降りて里へと着いた。目の前の左奥から右へ抜ける小道が、古い時代の塩の道とされている。松本城下が近世都市として造られてからは、塩の道は南寄りへ付け替えられた。わたしの棲む町内を通り、前の記事で書いた寿司屋の角を城下町へと続いている。もう黒曜石を掘る縄文の人々はいない。八ヶ岳山麓へ向かうのではなく、武家が支配する都市へと道筋を替えたのだ。





塩倉の池がまた見えてきた。この池の周りからも、縄文時代の遺物や遺構が発掘されている。




古道の腋に佇む馬頭観世音。隣にも草に埋もれて石碑か石仏か、なにごとかがおわす。




こちらも馬頭観音さんか。微笑みを浮かべた柔和なお顔を見せている。





民家の入り口に石が重ねられていた。祀ってあるようにも、飾ってあるようにも見えた。牛乳瓶はお供え物にも受け取れる。白い貝殻がこの石たちを聖別しているようだ。




塩倉山海福寺観音堂。この垂枝桜は見事なもので、あと五週間後には凄いことになっているだろう。毎年会いに来るのだが、鳥肌が立つほどの桜の樹というものは滅多にないものだ。垂枝桜は観音堂の前に左右一対で在ったのだが、向かって右の樹は枯れて切り株だけが残されている。桜の樹といえども、うたかたの夢のようにこの世を去ってゆく時が来ると、みほとけは教えてくれる。




観音様の視点から眺める。もうすぐこの丘は、杏と林檎と桜の花に覆われる。花は咲き花は散り、樹もいつかは枯れる。諸行無常のことわりか。




塩倉池の畔に帰り着いた。

ひとの営みは、歴史の中にさまざまなかたちで刻まれる。残るものもあれば消え去るものもある。五千年前の縄文の人々は、黒曜石の矢じりや土器の欠片を地中に残して、その存在を伝えてくれる。時代が下って、社に神を鎮めて祭祀を続けても、廃れたり遷したりすることで消えることもある。わたしたちは全て、消え去りゆくものだ。何を残せるかを選択することすら叶わず、せめて石に刻んだ祈りの痕跡ぐらいを後の世に伝えるのみか。


行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。わたしという小さなうたかたが、いま浮かんで、やがて消えようとしている。







1 件のコメント:

  1. 格調高く、歴史背景をご理解いただいた紀行を読ませていただきました。
    当地の持つ歴史を、外からの目で、克明にご紹介していただいたように感じました。
    ありがとうございました。

    返信削除