2018年6月10日日曜日

薄葉に乗りて神来る



里山辺という地籍に、美ヶ原温泉『白糸の湯』という共同浴場があった。わたしが松本に移り住んだ頃だからもう20年ぐらい前だろうか、温泉街に親しまれた湯屋は廃されて近隣の人々は寂しい思いをした。これが、平成15年だったか、場所を南に移して新しく生まれ変わり、『ふれあい山辺館』として営業している。夏は朝6時から営業、300円で極上の天然温泉に浸かれるのでわたしもよく利用している。この美しい土曜日の朝も、わたしはここで湯にほどけて過ごした。


枕草子に「湯は、ななくりの湯、有馬の湯。那須の湯。つかまの湯。ともの湯」との記述が見えるが、こんにちの美ヶ原温泉、かつての束間の湯は、遥か遠く都にまで知られていたのだ。さらに、『日本書紀』には天武天皇が、畏れ多くも「束間の温湯に幸せん」と使者を遣わして湯殿を作らせようとした、とある。この計画は天武帝の崩御によって実現しなかったようだ。北となりの浅間温泉も「束間の湯」に比定されることがあるが、こちらは時代を下って10世紀の開湯である。どうやら清少納言が取り上げたのは、今日の美ヶ原温泉であろう。


休日の朝の湯浴みのことから千年を超える時空の旅に出てしまった。







この写真は、松本市街地外れの拙宅の裏から南東方向を眺めている。左寄りの奥に袴越山と美ヶ原の王ヶ鼻が見え、右は鉢伏山である。中央に薄川(すすきがわ)が流れる谷が開けている。この薄川が平野に出たところ一帯が、里山辺である。なお上流の山間部は「入山辺」と呼ぶ。

里山辺は、古代松本地方でももっとも早くから拓かれたようだ。積み石塚の『針塚古墳』、古い時期の巨大古墳『弘法山古墳』をはじめ、たくさんの古墳が確認されている。どうやら古代社会の中心地だったのだ。




その里山辺の「へそ」のような場所に鎮まるのは『須々岐水神社』。これですすきがわ神社と読む。五月の連休のある日、例大祭の『お船祭り』が催されていた。

海のない信州に「船」の祭礼も奇天烈だが、安曇野、松本平各地に同様の祭礼が見られる。もっとも知られているのは安曇野の穂高神社『御船祭』だろう。こちらは、古代に北九州から移り住んで安曇野を拓いた海人族である安曇族が、自らの出自を後世に伝える祭りだと考えられている。






鳥居の扁額には「薄水大神」とある。





祭礼当日である。須々岐水神社の境内には、屋台出店が立ち並び、こどもたちがフランクフルトを頬張り、盛装した氏子や参詣者で賑わっていた。






須々岐水神社の案内板。近くを流れる「薄川」の水神を祀ると書かれている。この水神さま、最初からここに鎮まっておられた訳ではない。境内の南側に、少し離れて『古社』が祀られている。さらに、山奥の「明神平」と呼ばれる場所には『奥社』があるらしい。これは、神さまは最初、山奥の『奥社』に降臨された。ここから薄川を下って里山辺の地に『古社』として鎮まり、のちに現在の『須々岐水神社』に移られたのだ。川を下る時にススキの葉っぱに乗って、と伝えられている。このためススキの葉は片側だけが擦り切れてしまったらしい。



水神さまの性格ということは、水稲栽培、つまり本格的なコメづくりを教えてくれた神さまと重なってくる。須々岐水神社の祭神は、諏訪大社の公式な祭神と同じくタケミナカタである。タケミナカタの神さまは、出雲から日本海側をたどり、信濃川、千曲川を遡りながら信濃の地に入り、コメづくりを教えた、という伝承が残る。この、タケミナカタと水稲栽培のはじまりというエピソードは上田の『生島足島神社』創建の由緒にあるらしい。十年ぐらい前に当の宮司さんが話してくれたことなので間違いあるまい(毎回だいぶん呑んでのことだが)。

タケミナカタの神さまが伝えたのはコメづくりだけではあるまい。考えるに、縄文時代の終わり頃には、原始的なコメづくりは小さな湿地などで細々と始まっていたのだろう。山際の谷地や平野部の低湿地などなどにおいて、春に籾を蒔いて秋に穂を採る、そのような原始的なレベルである。そこへ、タケミナカタが灌漑や用水といった土木技術も併せて伝え、水稲栽培が本格的に行われるようになったのではないか。

神さまが降臨したという場所、それは薄川の上流にある。山奥の明神平らに祀られているという『奥社』にお詣りしてみよう。カブを走らせて、わたしは薄川を遡る車道を走った。行き先は、扉温泉である。






温泉街には、といっても日帰り浴場と食堂、ほかに2軒の旅館があるだけである。その日帰り入浴施設の奥に向かう。空き地にカブを停め、車道を歩いてみることにした。正確な場所は解らない。いくつかのサイトの記述と地形図の等高線から見当をつけたまでである。





おわしたおわした。さほど長く歩くこともなく、緩斜面というより平地に近い場所に鎮まっておられる。





おや、御柱が建てられている。





タケミナカタの神さまをお祀りしているのなら御柱も必要であろう。余談だが、諏訪の地では、屋敷神だろうがお稲荷さまだろうが社宮司さんだろうが、社殿の四隅には、絶対と行っていいほど御柱が建てられている。小祠石祠にまで、四隅には御柱を建てる。松本平の南半分でも、こうした御柱祭りを行うところがいくつもある。この奥社の近くにも『大和合神社』という鎮守の神さまがおられるが、ここも立派な御柱が建てられる。『大和合神社』のことは別な機会に書こう。







こうして奥社の神さまと向かい合っていると、やはり、この神さまは、山ノ神であると思われてくる。山ノ神は、水神でもある。本格的な水稲栽培を教えられた人々は、水の恵みをもたらす山を祀り、田を潤してくれることを願ったのだ。



コメづくり自体は出雲からタケミナカタがもたらした、と伝えられている。このことは、さまざまなルートを経て大陸の文化を運んできた人たちが、のちのちにタケミナカタに習合されていったと考えて良いのではないか。

わたしはそこに、安曇族に代表されるような、海人族たちの存在を重ねてしまう。海の神を祭る穂高神社を創建し、連綿と船のお祭り行ってきたことからも窺えるように、安曇族は海の民である。海人族として列島沿岸に交易ルートを開拓し、おそらく大陸との交流も行っていたであろう。大陸の情勢、中原から河北に勃興する諸勢力の盛衰をリアルタイムに把握してきた人たちなのだ。そうしたプロセスのなかで、長江下流域に始まったとされる、水稲栽培の知見を得ていたに違いない。渡来人を運ぶ機会もあっただろう。彼らとともに土木や灌漑の技術を広めることにも携わったことだろう。

しかし、すべては有史以前の薄明の彼方である。古代に至り、わずかに文字史料が残され始めるが、安曇族は姿を消す。信州各地に残された淡い伝承の痕跡からは、多くを知ることは出来ない。







薄川の流れ。左岸に立って上流を見ている。この流れを、須々岐水神社の神さまはススキの葉に乗って流れ下った。ススキの葉とは、ススキで編まれた船を表しているのだろうか。







そして谷から平野に飛び出した辺りで岸に上がられた。これが『古社』である。祠の真ん前には石積みの古墳がある。『奥社』のおわす薄川の谷は右奥に見えている。



古代より少し前、水稲栽培を伝えた人々がこの里山辺に暮らした。コメづくりのために山ノ神、水神を祀り、奥社、古社、そしていまの須々岐水神社へと連なる伝承を残した。山に降りた神がススキの葉に乗って川を下るというエピソードは、何を物語るのだろうか。いまも行われる船のお祭りで受け継いできたことがらと重なってくるのではないか。このあたりになにか核心のようなものが秘められているように思える。祭りは、何か大切な事柄を風化させまいとして行われる。諏訪の『御柱祭』しかり、なにかを後世に確実に伝えんがために、受け継がれているはずだ。

わたしは陽光眩しい里山辺の田園に立ち尽くして、太古の人々が後世に伝えようとしたことに思いを馳せていた。答えが出るようなことがらではないが、もう少し考えてみよう。












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