2018年4月15日日曜日

たらの芽を探しに


花散らしの嵐が去り、それでも小雨に降り煙る朝、春の味覚を求めて裏山に登る。

たらの樹の群落が何カ所かにあるので、新芽を頂いてこようと薮を漕ぐ。その土地その土地で採集が許されている場所は限られているので、私有地や他集落の財産区になっている里山には近づかない。

カッパ替わりにRabの"Exodus Jacket"を着てきた。この程度の雨はみんな弾いてくれる。通気性も優れているが、保温性がやたら良いジャケットなので登りが続くと汗が出る。脇のジッパーを開けてやると、とたんに快適になる。うん、良いジャケットだ。





最近伐り開かれた森の一角で、古い小鳥の営巣跡を見つけた。電柱の上のカラスの巣を見たことはあるが、自然の中で小鳥の巣を見るのは初めてかもしれない。見事な形を成しているのだなあ。





おおお、すばらしく立派なたらの芽。これは近所の山友にお裾分けしよう。

少年時代のひところ、わたしは東北のある街に住んだ。街のすぐ背後に里山が広がり、家から15分も歩けば森の中に立っていられた。幼児期を除いて東京育ちだったわたしには、魚棲む川も獣の気配がする森も、とても新鮮であった。その折々の季節の歩みの中で、昆虫や化石を探しに行き、魚を釣って生き物を飼い、森と友達になることが出来た。その手引きをしてくれた若きナチュラリストの同級生と、森の中で遊んでいた時のことだ。たまたま掴んだ灌木が刺だらけで痛い思いをした。同級生は「これはたらの樹だ、春に芽を採るんだ」と教えてくれた。春が来てふたりでたらの芽を探した。抱えきれないほどに採って帰ると、両親が歓喜して躍り上がっていた。近所や勤め先にお裾分けするとも言っていた記憶が残る。父はこれを肴に、ビールが美味そうだった。






小さな芽は採らずにおいた。採り尽くしてしまうと、枯れる樹も出てきて群落の勢いが殺がれてしまう。また、手が届かないほどに育った樹の芽も残しておく。シュリンゲを持っているので、幹に引っ掛けて手繰れば採るのは容易い。しかし大きな木の樹頂の芽を残しておくと、枝が広がってたくさんの実が成る。実が成って種をこぼせば、群落も広がる。数年後にはたくさんの新芽が採れる。こうして、森と人のちょうどいい距離感が保たれていると、恵みをいつまでも頂くことが出来るだろう。そういったことがらは、ふるく石器時代から営々と続けてきた、山や自然との関わりから学んだことだ。



帰りに寄った西の尾根の群落では、すべての芽が採り尽くされていた。手が届かないような太く高い幹は鉈ですぱっと伐られていた。すぐに出てくる二番の芽、枝から延びる芽、そして来年と、ずっと続くはずの恵みを断ち切ってしまっている。まるで焼き畑ナントヤラである。今年のそのときその日だけに得る物のために、来年の恵みなんてどうでも良いのだろう。

「枝を切るのは山の爪切り、間伐するのは山の散髪」

そう教えてくれたのはブッシュクラフトに携わる山友である。わたしは坊主頭だから散髪はバリカンで1ミリに刈るのが流儀だが、山の恵みには当てはまらない。なんだか寂しい気持ちで、里山を後にした。












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