2019年6月2日日曜日

鍋の取り皿をめぐる問題

鍋の取り皿が問題なのだ。

考古博物館や郷土資料館に行くと、たくさんの縄文土器が展示陳列されているのを見ることができる。ものすごい装飾や文様に圧倒されるだろうが、これらのほぼすべてが実用品であり、実際に煮炊きに使われていたと聞かされれば、さらに驚くことだろう。

ここでは、その特徴的な縄文土器の装飾のことには触れない。

確かに、その大きな土器には山の幸海の幸が素材として投じられ、煮込み料理やらスープやらの様子で数千年前の祖先たちの腹を満たしたことだろう。いま手元にある藤森英二著『信州の縄文時代は実はすごかったという本』にも「煮炊き用の鍋である」とはっきり書かれている。教科書にも同じような記述があったように思い出される。土器の発明が調理方法の幅を広げ、エネルギーの摂取を助けたのだと。



わたしのまぶたの裏には、当時の家族団らんの様子が浮かぶ。薄暗いが心地よさげな住居の中で、炉には炎があたたかく揺れている。そこには大きな深鉢型の土器。何かが煮えているのだろう。まだ小さな子どもが父さんの話を聞くよりも土器から立ち上る旨そうな湯気に心を奪われている。母さんは、土器の中から料理を掬って....

ここでわたしの想像力は、ぴたりと止まるのである。

母さんが手にしているレードル、つまりお玉とか柄杓と呼ばれる道具の素材と形状が思い描けない。さらに、お玉が掬ったお料理そのものは、どこへ行くのだ? お腹を空かせた子どもが手にする器が、思い描けないのだ。煮込みであれスープであれ、あるいは鍋料理ならば、汁物ではないか。その汁物を盛る器とは、どんな器だったのだろう?

博物館の展示室に戻ろう。ずらりと並べられた土器たちは、大きな物が多数を占める。深いもの浅いものがあるが、小さな物がない。おっと有ったぞ。何々、ミニチュア土器とある。説明書きには「祭祀用と考えられている」とある。違うこれじゃない。わたしが探しているのは、鍋などの汁物をよそう、銘々の碗のことだ。鍋の取り皿のことだ。毎食の度に手のひらで包む、それぞれの皿茶碗のことだ。

近隣のいくつかの博物館に足を運んだ。わたしの探し物は、どこにもなかった。そこでわたしも考えた。そうか、個人用の碗、鍋の取り皿は質素で装飾もなく、文化財としての価値も低いのでここに展示されていないだけ、と。

博物館で見ることができないのならば、と何冊かの本も買ってみた。土器や土偶のことは美しい写真とともに紹介されているが、鍋の取り皿のことは何も書かれていなかった。

次にわたしはGoogle 先生に訊ねてみた。『縄文土器 碗』で調べてみたのだ。違うようだ。続けてベタに『縄文時代の鍋の取り皿』で問う。Google 先生は、教えてくれなかった。

なぜスルーするのだ? 

煮炊きの道具について語るのであれば、個人用の器についても取り上げられて然るべきではないか? 数から考えれば圧倒的に多く作られたはずの銘々の器、家族の人数分の器について、いかなる理由で無視されるのだろうか。

さらにわたしは考え続けた。こういうアイディアも浮かんだ。
「何も解明されていないのではないか?」

これは考古学者たちにあまりにも失礼なことだ。



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数千年前の祖先たちが、どんな道具で飯を喰っていたのかが全く判らなかった。その疑問符が、ある日、何と書けばいいのか、大きな音を立てた。




わたしはGoogle 先生に『縄文時代 碗』と、石へんで問うたのだった。小振りの個人用の土器が大量に作られて日常的に消費された、という文脈で考えていたのだ。目の前のククサを眺めながら、自分の過ちに、ゆっくりとだが気づき始めていた。

わたしは、木へんで尋ねる必要があったのだ。土器の「碗」ではなく、ククサのような木製の「椀」で。


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調べ直し、いくつかのリポートに眼を通し、わたしは祖先たちの高い知性に驚かされるばかりだった。おそらくは桐などの加工性の高い樹種を選び材としたのだろう。磨製石斧を丁寧に材に当てがって叩き、資料には「横木取り」したとある、板を取り出したのだ。さらに刃を当てて必要な形状を取り、器として抉ったのだ。これを今日のブッシュクラフト用語ではバトニング、チョッピング、そしてカービングと呼ぶ。

木製の椀には、漆が塗られていた例があるという。器の外側より内側に多く重ね塗りされていたということは、縄文時代の祖先たちが塗料としての本質を理解していたことを示している。木は薄く削られていたという。金属のない時代に、石器だけで見事な手仕事をしてきたということだ。どれもすごいことで、わたしたち世代が思い描く原始時代像からかけ離れている。

こうした木製品、植物素材を使った籠などの容器をはじめ生活用具は、長い年月の間に分解されて残らない。偶然にも湧水や湿地化などで水に浸かって保存されるケースが僅かにあるだけだと聞く。未来の考古学者たちはどんな新発見をしてくれるのだろうか。



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はぜる薪の音。楽しげな家族の会話。その子は、手のひらに美しい木の椀を乗せ、これまた美しく滑らかに磨かれた木の匙を口に運んでいる。父さんは眼を細めて子を見やる。母さんは、木のお玉で鍋の中をひと混ぜしてお替わりを勧めている。

わたしの脳裏で、祖先たちの団らんの情景をようやく描くことができた。






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